ズッキュン‼‼
「乃木坂は理想で、俺達は求愛行動に必死なファンという名の有機物、だな」
三笠木里奈はメガネを外して、首を鳴らした。
「風秋君に1票ね。確かに、その方が乃木坂とファンの構図にしっくりくる部分がある」
綾乃美紀は表情を険しくさせた。
「え~、私稲見さんに1票だけどな~……。抑圧から解放される為に、私お酒、呑みますもん……。お酒大好きですし、乃木坂も大好きですもん。現実逃避したい時も、乃木坂って愛をくれるんですよ。乃木坂の時間の中にいる間は幸せでいっぱいです」
稲見瓶は、無表情で風秋夕を見つめる。
「DNAなんて人間の要素に過ぎないよ……。人間なんて、65.0%の酸素と、18.0%の炭素と、10.0の水素、3.0%の窒素、1.5%のカルシウム、1.0%のリン、0.9%の少量元素と、0.6%の微量元素だ。でも心は違う、もっと複雑だ。ルールという束縛が無ければ更に複雑化するだろうね。人間は常に束縛されてる。それを忘れる時間を常に求めてるんだよ」
風秋夕は短く首を振った。女子の二人は黙って二人のやりとりに聞き入っている。
「ルールは束縛じゃなく、暗黙の約束だ。それは安泰であって、安心の権限だ。例えるならな、交通ルールが無ければ危なっかしくて外にも出れない。それを、縁石のすぐ横を60キロの速度で車が通過しても、人はなんら怯える事無く道を歩ける。ルールが約束してるんだよ、安心を。ハンドルを右や左にちらっときるだけで、人は命を落とす。それをあえてしないのは、恐れないのは、ルールがあるからだ……。ま、話それたけどな」
稲見瓶は煙草を吸いながら、微笑む。
「言い方が悪かったね。規制と言い換えようか、規制された分、今度は解放が必要なんだよ。制限された分のエネルギーを、今度は何かに変換しなくちゃならないわけだ」
風秋夕は両方の眉(まゆ)を上げる。
「それが、乃木坂?」
稲見瓶は言葉を続ける。
「大気の圧力に」
「まだ大気の話してたんかよっ‼‼」
「じゃあ、別の例えにしようか。そうだな……。束縛されて制限された分、消費できなかったエネルギーと、逆に爆発的に発生した余分なエネルギーがある。人はバランスを保つ為にエネルギーが減れば補充するし、増えれば消費するんだよ。この場合、そのどちらも乃木坂に当てはまる」
風秋夕は笑みを浮かべた。
「いいんじゃない? 乃木坂は癒してくれるし、こっちの愛情っていうパワーを吸収してくれる。乃木坂も拡大していくし、ファンは心のバランスが取れる。更にいえば、乃木坂が拡大していけばいくほど、ファンも肥大していくしな」
綾乃美紀は、額(ひたい)の隅(すみ)に片手を添(そ)えて、困った表情で皆を見回す。
「えっとぉ~……、今って、お二人とも、なんのお話をしてたりします?」
風秋夕は微笑みながら答える。
「乃木坂がいなくなると困るのに、その中からまなったんがいなくなるのは、過激すぎる、て、話かな」
稲見瓶は無表情で答える。
「まなったんの卒業を、どう受け止めようか、という話でもある」
綾乃美紀は大きく頷く。
「あぁ~……、な~るほどぉ……」
三笠木里奈はまだ熱い、湯気の立っているコーヒーカップをテーブルに置いて、メガネを耳に装着し直して、皆を一瞥する。
「そうね。とにかく、みんな乃木坂の話がしたいのね。いいよ、真夏さんの卒業の話、しましょ」
3
〈03ミーティング・ルーム〉のすりガラスの施されているドアをスライドさせて、綾乃美紀は新しく淹れたコーヒーのポッドを持って、宇宙的なデザインの長テーブルに着席した。
綾乃美紀は、風秋夕が楽しそうにしゃべっているのを一瞥する。
「記憶って変わっててさ、色んな印象にくっついて、思い出、て形で残ってるんだ。だからまなったんの11年間の記憶をただただ思い出そうとしても、途中どっかで必ず途切れる記憶がある、タンジェントの曲線みたいにさ。でも、記憶もタンジェントも、実は広がり続けてて、そこに書ききれないだけで、別のポジションでは常に展開してるんだよ。記憶も何かしら起爆剤となるきっかけがあれば、必ず思い出せる。例え、長い長い11年間でもな」
稲見瓶は思い出したように、テーブルに置いてある煙草の箱から一本を指先に抜き取った。
稲見瓶は、風秋夕を見つめる。
「タンジェントなら、例えばy=tan x(ワイ=タンエックス)といったグラフがあるとするとね、…ああ、先にいうと、π(ぱい)は=180度で、2π=360度で一周だよね」
淹れたてのコーヒーをテーブルに戻して、三笠木里奈は、稲見瓶をつまらなそうに一瞥する。
「また、急に何かな、稲見君……」
稲見瓶はゆっくりとした動作で煙草を吸いながら、言葉を続ける。
「簡単にいうと、ある角度のxの線を引いた時の線の傾きを表したのがtan x(タンエックス)です。……線の傾きというのは、どれだけ線が傾いているかを表す数値で、横(x)に1進む間に縦(y)に幾つ進むのか、という数値だね」
風秋夕は黙って聞いている。三笠木里奈は頭の中にグラフを描いていた。綾乃美紀はぽかん、としている。
「右方向を角度0とする。左回りでどんどん角度が増えていく……。45度の線を想像してみてくれるかな。その線は、ちょうど横に1進む間に、縦にも1進むよね。つまり、傾きは1だ」稲見瓶は、確認するように、皆の眼を見つめていく。「y=tan45(ワイ=タンジェント45)=1という事になる」
稲見瓶はリアクションの無かった皆を一瞥しながら、また言葉を再開させる。
「じゃあ、0の時は? 線は真右に出ているね……。つまり、横に1進む間に、縦には全く進んでない。つまりは0という事になる。傾きは0だ」
風秋夕は頭の中でグラフを映像化する。
三笠木里奈は稲見瓶の言語説明で、充分に理解していた。
綾乃美紀は、稲見瓶の教授中にコーヒーをおかわりしていいものかどうかを、激しく脳内で検討している。
稲見瓶は、煙草をひと吸いしてから説明を続ける。
「じゃあ、90度の時は? 90度のところで線は縦に垂直になる。横に1進む間に、結論からいうと、縦には∞進むんだ。横には一切進まないけど……。でもね、仮に縦に無限に進んであげると、不思議な事に、横に1進む。これは、0.0000009の無限が1に値するのと同じ∞解釈だね」
稲見瓶は、頷(うなず)く事もしない三人を無表情で見つめ返しながら、言葉を続行させる。
「グラフを想像してほしい。Xが0の点から右に進んでいくと、線が湾曲して右上の方に延びていくよね。上の方に延びていって……、途中で切れる。さっき夕が言ったタンジェントのグラフ通りにね。そして、少し右を見ると、また下の方からニュニュっと線が出てくる」
綾乃美紀は微笑む。
「ああ私ニュニュダンス踊れます。………。ごめんなさい、どぞ」
「これは、さっき夕がタンジェントのグラフの特徴と記憶を比喩して説明した通り、実は線は切れているのではなく、グラフにのりきれないんだ。ようは、書ききれてないだけ」
風秋夕は、ようやく笑みを浮かべた。