ズッキュン‼‼
「そう、無数のファン達が秋元真夏というスターの11年間を見てきたり、振り返ったり、調べたりしてるんだ。確かに1度存在した11年間の記録は、無数のファン達の記憶のネットワークに確かに展開図として残ってる」
稲見瓶は頷いて、煙草を吸ってから、煙を横に吹き出して言葉を再開させる。
「線が切れてるところは、xが90度、πの半分のところなんだ。この時のyは∞だね」
三笠木里奈はその小顔からメガネを外して、眼をしばしばさせながら稲見瓶を見つめる。
「わかるよ。けど、何を言いたいのかがまだ判然としないね。つまりは、何?」
稲見瓶は無表情で続ける。
「つまりね、書けないんだ。正確に書こうとすれば神宮のライブ会場サイズのグラフ用紙を用意しても書けない。絶対書けない、一生かけても書けないんだ」
三笠木里奈はメガネを耳に掛けなおして、黙って聞いている。綾乃美紀は、大きな納得を大袈裟(おおげさ)な表情と仕草で落としていた。
風秋夕は煙草を吸いながら黙っていた。
稲見瓶は三人を一瞥しながら説明を続ける。
「でもね、線はずっと繋がってる。途切れることなく、繋がってるんだよ。記憶なんかも、きっと同じ記憶専用の用紙や、同じ記憶次元には書ききれないだけで、おそらくは繋がってる」
風秋夕は煙草の灰を灰皿に落としてから、発言する。
「そうだ、引き金があれば、記憶は蘇(よみがえ)るからな」
稲見瓶は、灰皿に煙草を捩(ね)じって消した。
「まあね、続きをいうと、∞まで行くと、次はずっと下、つまり-∞から線が出てくる。そしてまた湾曲して延びて、0を通り越して、また右上にニュニュっと出てくる……。ああ、そう、0の地点で1周だね、360=2πね」
綾乃美紀は、不思議そうに三笠木里奈を見つめる。
「わかりますか?」
三笠木里奈は、一瞬だけ綾乃美紀を一瞥した。
「もちろん」
稲見瓶は飲み終えたコーヒーカップを、灰1つ落ちていないテーブルに戻した。
「つまり、ある極限値(∞)まで到達すると、下の極限値(-∞)から出てきて、また同じことを繰り返すわけだね……。これは俺が学生時代にタンジェントから教わった知識だけど、色んな事に総意があると思う」
風秋夕は煙を上に吹き上げてから言う。
「メンバーの卒業と新メンバーの加入、歴史は進化しながら、探(さぐ)り当てた正解を繰り返すんだ。乃木坂がそうだよな」
三笠木里奈は、細長い煙草に火をつけた。
「真夏さんの記憶は、全て懐かしいという時間の概念に結びついているんではなくて、実は真夏さんの名前に結びついているのよ……。秋元真夏という固有名詞の中に、私達はたっぷりとした時間を形成させているの」
綾乃美紀はけけらと笑う。
「でも記憶って絶対に正しいものなんかじゃなくって、たま~にその事実を捏造(ねつぞう)して覚えますよね」
風秋夕は、綾乃美紀に小さな笑みをみせた。
「美化されるからだね…、思い出はぴかぴかに磨(みが)いて保存しておくほど、見つけやすいからさ」
稲見瓶は、おかわりした熱いコーヒーカップを両手で握りながら、黒いまるで毒のようなコーヒーの液体を眺めながら、ぼそぼそと囁(ささや)く。
「まなったんへの愛情の極限値を越えると…、次の作業は、まなったんの乃木坂としての最初に戻って…、その頃のまなったんにまた、愛情を注ぐ作業が待ってる……。11年間で、きっと何百回とそれが繰り返されただろうね……」
三笠木里奈は煙草をゆっくりと吐き出してから、稲見瓶を一瞥した。
「この卒業発表で、その作業は大幅に繰り返されるでしょうね……。世界中の真夏さんのファンが、おそらくそうするはず」
綾乃美紀は、ほっこりとした笑顔を浮かべる。
「いっつも笑顔と、あったかい笑いと共にありましたね~…、まなったん」
三笠木里奈は、銀色のスチール製の灰皿に、吸いかけのスマートな煙草を押し潰した。
「真夏さん……、自分と正反対の性格だから、憧れるな……。あんなに、私も可愛く生まれたかった」
風秋夕はけけっと笑う。
「まだ間に合うよ三笠木さん。見た目はばっちりだから」
三笠木里奈は鋭い眼差(まなざ)しで風秋夕を捉(とら)える。
「見た目は、だって?」
風秋夕は笑顔で眼を逸らした。
「おお、怖え……」
綾乃美紀はくすくすと笑いながら、コーヒーを飲んだ。コーヒーを飲み込む際に、状態が背後へと反れて、白のタートルネックのセーターに秋元真夏の缶バッジがつけられているのが見えた。それは鼠色(ねずみいろ)のジャケットで隠れていて普段は見えない。
稲見瓶は笑みを浮かべそうな表情を強制的に停止させた。風秋夕を一瞥する。三笠木里奈と会話している彼は、黒いスーツに桃色のワイシャツを着ている。桃色は秋元真夏のサイリュウム・カラーである。
三笠木里奈は、いつもとは異なる赤い縁のメガネをしていた。赤も秋元真夏のサイリュウム・カラーである。
稲見瓶自身は、スマートフォンの待ち受け画面を秋元真夏にしていた。
それぞれの想いが、この秋元真夏の卒業を物語っている。果てしなく襲いかかる悲しみを回避する事は皆無で、それは心理的にというよりは、もっと物理的なもので、1トンの鋼鉄を片手で持ち上げられないのと同じで、その事実を避ける事は不可能であった。
だがしかし、ガスが自然と浮き上がろうとするのと同じく、皆は心の温まる方へと進路を向けている。秋元真夏を賛美して、敬愛して、その11年間の大物語を大切に読み返している。
決してただのフィクションではない、まるで完成されたフィクションのような、ノンフィクションのストーリー。
こよなく愛してきた秋元真夏が、乃木坂46という物語で、卒業という一種の完結を迎えようとしている。
「三笠木さん、真夏さんって呼んでんの違和感しかないわ」
「どうして? 尊敬語よ。普通じゃなくて?」
「え~、まなったん、ですようやっぱりぃ~。その方が可愛いじゃないですか~」
アイドルでいる事の難しさ。それはアイドルでいる事の偉大さと比例している。
y=ax。
彼女はどれだけの苦労を積み重ねて、どれだけ価値ある愛を創ってきただろうか。
空想から飛び出してきたかのような、理想の存在。
それはまるで理想気体だ。――実在気体には、分子間力があって、分子が体積を持つ為、気体の状態方程式が完全には成り立たない。それが本来のリアリティだろう。だが、理想気体は、分子間力が無く、分子の大きさを持たないとする仮想的な気体で、気体の状態方程式が完全に成り立つ。それが理想と銘打(めいう)たれた由縁(ゆえん)だ。
m³・mol⁻¹。
秋元真夏の魅力は、仮想的に愛しいの到達点を想像されたような、それはまるで理想の産物で、それでいて、実在する国民の嫁だ。これがおそらく、アイドルの集大成であり、、最終形態なのだろうと納得できる。
「三笠木さん、ズッキュンして」
「あれは真夏さんがやるから素敵なのよ、風秋君」
「あじゃあ、私やりましょうか? ズッキュン」
「おお、いいねやってやって。綾乃さんは、はたして撃ち抜けるのかなぁ、俺の心……」
「ハードル上げますね風秋さん、じゃ~…、ちょっとギア上げて、いきます……」