アルスカイダルの非常階段
コツ、コツ、コツ、と、己が歩く度に石製の床がヒールの音を響かせる。意識は目標の公衆電話に向かっているが、どうしても無意識に人の視線を感じてしまう。どうしてこんな物を履いて来たのだろう。それは光夫以外の誰が見ても得にはならない。強いて言いたくなる程に、それはただの試練になってしまっている。心臓がパンクしてしまう前に、無駄にかかとの高い靴など脱ぎ捨ててしまいたかった。
自分はこの特別に辛い試練に耐えて、どうなるのだろう。感じる視線を遮断し、ミッションに耐え抜いたのならば、一体何になれるのだろうか。どんな得が待っているのか。ハイヒールの女王にでもなれるのであろうか。
番号をプッシュし終わり、受話器を耳に付けた時には、もう半ばどうでもいいような気分になっていた。
「あ…、もしもし、遠藤ですけど。どうも……。あの、光夫さん、お願いできますか」
さくらは返答を待つ間、館内に視線を向けようとしたが、それをやめた。これ程に派手な格好をしている人間は館内に自分だけである。ならば光夫が自分を発見する事は容易であろう。遅刻してきた人間が勝手に見つければいい。それが礼儀という物だろう。
その苛立ちと、視線を受けているのではないかという疑心が、エレベーターを確認しながらの電話を拒否していた。
「あ…はい…。――え?」
さくらは壁を凝視したままで、言葉と顔の表情筋を静止させた。
次の言葉がなかなか出てこぬうちに、光夫の母親がさくらに困ったような言葉を返してくる。
「やっぱり昨日のうちに出たみたいよぅ……。携帯電話の方に電話してみてくれる?」
さくらの思考回路が厄介に動く。とりあえず、わかっている事を優先的に質問する事にした。
「あの…、携帯電話はいま、ちょっとこっちの携帯電話が使えない状態なので、かけられないんです……。――あの、昨日…出たとは、どういう事でしょう? 私との約束は、今日なんですけど……。誰かと、約束してたのかな……」
「え?」
「あの…、昨日からそのまま、ご自宅にはまだ帰られてないんですか?」
「あら、光夫なら…、出張に出てるけど……」
鳩尾(みぞおち)から鎖骨に向かって重圧な不快感が一気にのぼりあがった……。
さくらは壁を見たままで、顔の表情筋を静止させる。
意味が理解できない……。
「あの…、昨日、私夜の…えと、何時だったか、あ、十一時頃から、私光夫さんと電話していたんですけど……」
「そうなの? よくわからないんだけどねぇ、じゃあ、その後にすぐ出掛けたのかなあ。ねえ」
熱い水飛沫(みずしぶき)のような感情が胸にジュワっと弾けた。
瞬発的に気が散漫していく……。
「え……、出張ですか?」
「ええ…。あら、さくらちゃんも光夫から聞いてない?」
ついに、質問項目と疑問心が、思考不順を引き起こす。
「約束したのは昨日なんですけど。え…、あんな深夜帯に会社から出張命令が出たんですか?」
さくらは出来るだけ興奮を押し殺して、光夫の母親に「それは有り得ないと思います」と言った。
「そう言われてもねえ…。確かに、会社の方からそういうお電話を頂いたのよ。間村さんって、言ってたかしら…。さくらちゃん知らない?」
間村……。それは間違いなく、確かにあの会社の人間である。歓迎会を、進行役として仕切っていたのが、間村部長であった。
彼は確かに、出張などを扱う、人事部の部長という席にあいる。
理解した時に、ようやく異質な悪寒に気が付いた。
「間村部長から直接自宅に電話があったんですか?」
さくらは激しい剣幕できいた。しかし、その声はなんとかで調節されている。
「そう。緊急だからって、言ってね。ついさっきよ、十二時になるか、ならないか、そのぐらいだったと思うけど」
さくらの胸には尋常でない鼓動が打っていた。錯乱寸前の思考回路には、到底受け入れる事は不可能と思える事実が何度も繰り返される。
「どこに出張したか、さくらちゃん知らない?」
すでに凝固してしまったさくらの耳には、もうそれ以降の声は届かなかった。
なんとか残った、一掴みの正常心で、失礼のないように電話を終わらせた。
光夫は、来ない……。
爆竹のように破裂する思考……。光夫は、出張に出掛けた。昨夜約束をしたばかりなのに、遅刻している光夫に電話し、帰って来た答えは『出張』という答えであった。
理解できる筈はない。その約束は向こうから取りつけてきた約束なのだから……。
事実を受け入れようとすれば、思考は爆竹のように空気中に散分していく。
さくらは公衆電話の前に立ち尽くしたまま、昨日急に襲われた、あの妙な違和感を思い出していた。
それは急に浮上した……。
まるで、光夫の出張のように……。
当然のように、さくら背筋を悪寒が襲った。
『ええ、勝ち負けを競ってもらいます。もちろん採点の高かったカップルが次に進みます。採点の低い順から、皆さんには消えてもらいますので』
さくらは背後を振り返った。そこに光夫の姿はない……。
ある筈はないのである。
『という事で、諸君には我が社恒例の、歓迎会催しに参加してもらいます』
さくらは次の瞬間走り出した。急に駆け足を開始したせいで、足首を軽く捻りそうになったが、そんな事などは、もう、気にしない。
売店に寄り集まっている人間達を掻き分けるように、腕で強引に退かした。
エレベーターの階表示は、一階で止まっている。さくらは売店と公衆電話の先に先程確認していた、非常階段に向かって走り出した。
階段を転びそうになりながら駆け降りる。途中、踊り場でもう一度上を振り返って見た。
そこには、まだ、誰もいない。
また、間村部長の言葉が、脳裏に蘇った。
『R-スカイダールには非常階段はないんです』
非常階段に木霊するハイヒールの音が、更にさくらの恐怖心を掻き立てた。
夢中でドアノブに手を掛け、重たいドアを、勢いをつけて肩で押し開いた。
まだ、誰もいない。
『これはあくまで催しですから、会社からのプレゼントを勝ち取るまでは…楽しんじゃいましょう。なはは』
映画館を飛び出して、街の中に紛れ込むように、夢中で走る。
無性に腹が立った。それは誰に対する物でもない。それは自分自身に対してでさえなかった。
ただ、思考回路を急激に蝕(むしば)む恐怖と共に、無性に、腹だけが立った。
それは始めから…、気が付けた筈なのだ……。
『ついに残ってしまいましたね……素晴らしい。実に見事な幸運と言いましょうか』
『人生に運は付き物ですね、ですが、それを更に上回らなければならない、実力という物が社会では求められます。何があるかわからない、一寸先は闇、それが全ての人間に与えられた人生です』
交差点を渡り切ったところで、さくらは後ろを振り返った。
それは居た。
季節は夏だというのにも関わらず、深々とフードをかぶって、サングラスをかけている。マスクも着用している為に、顔はわからない。
それは交差点を挟んだ、向こう側の信号に一人で立っている。
迷う事なく、こちらを意識して立っている。
それは映画館の中で、執拗に感じていた、まさにその視線であった。
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ