アルスカイダルの非常階段
胸のつかえは記憶を遡(さかのぼ)る作業で緩和されている。しかしまだ、さくらの胸にはもくもくとした暗雲がうやむやとなって広がっていた。
そうだ……。
記憶の作業に成功する。その『出張』という響きは、確か、城野に書類を渡しに行った時に聞いた言葉であった。
さくらは何やらを面白可笑しく伝えているテレビ画面に顔をしかめた。すぐにテレビの音声のボリュームを絞り、考え始める。
城野は、さくらの同期社員である。
さくらは、肩で大きく溜息を吐く。それがどうかしたのか。と、もう一度、己に問いかけながら、思考作業に専念した。
しかし、何だが形の整わない胸のつかえは、その後もさくらの胸に居座り続けた。夜食のチョコレートバーを半分ほど食し、残りの半分を風呂上りにと、気分転換までを演出してみたが、しかしそれさえも失敗に終わる。
どうにも納得のいかない違和感がまとわりつく。
その妙な感覚は、時間を経過させるごとに、徐々に信憑性を増していった。
時刻が午後の十一時を回ったあたりで、さくらは光夫の携帯電話に電話をした。
「どういうんだよ、それ……」
「だから、ちょっと変だと思わない? だって、そんな、急な出張って、ある?」
「あるから行ったんだろ」
「そうじゃなくて……」
さくらは一言を躊躇(ためら)った。よく考えてから、その一言を選出する。
自分でも可笑しなところで引っ掛かっていると、自覚はしているつもりであった。
「嗣永君は一週間前に突然出張してるんだよ? 可笑しいと思わない?」
「思わない」
「なんで? ……だって、家の人に本人からの連絡がないんだよう? 普通そういうのはあるんでしょう?」
「緊急だったんだろ」
「それに…、中間君は昨日私達と一緒にいたじゃない。歓迎会の時にもう出張に行く予定が決まってたら、中間君の場合、絶対私達に話してると思わない?」
「だからその後に決まったんだろ。――なんだよ、なに興奮してんだよ」
さくらはテレビの電源を落とした。
短く呼吸する。
「城野君も、今出張に行ってるの、知ってる?」
「あ、そうなの? へ~…。あいつどこ?」
「知らない……。それは聞いてないから」
「ふーん…。へぇ~」
「船尾君も、城野君と同じ、一週間前から出張に行ったって…。秋吉さんも、江藤さんも、みんな一週間前から出張に行ってるって」
「そんなに? マジかよ…」
「ねえ、やっぱり可笑しいと思う。みんなね、誰も家の人に連絡してないみたいなの…。みんな会社からの連絡で家の人は出張を知らされてるんだよ? 偶然にしては……」
「偶然じゃないよ」
「え?」
「だからみんな緊急の出張命令だったんだろ? 一週間前っていったら、最初の歓迎会があった日だよ。その後に出張を聞かされたら誰かに電話してる暇なんてないぞ? 夜間出発だろ? 支度で手一杯になるって」
さくらは、少しだけ光夫の言葉に感化された。だがしかし、やはりふに落ちないそれが、さくらの胸を締め付けたままになっている。
光夫との会話は、意外な方向へと展開していった。明日の日曜日、久しぶりに二人で映画鑑賞をしようと決まったのである。大学時代にサークルの仲間同士でよくやった遊びで、鑑賞した映画作品に対して、演出、表現、脚本、などに対して各々の感想を交えたディスカッションをするという物がった。光夫がさくらにそれを持ちかけたのである。
なんでも、気になる新作映画があるとの事であった。映画の内容はありがちな戦争モノで、さくらの好みとする物ではなかったが、例によって、さくらはそれを二言返事で了解した。
電話を切った後は、すっかりと顔が火照っていたが、食べかけのチョコレートバーをベッドの上に発見して、それに噛り付きながらテレビの電源を入れると、火照りはいつの間にかすっきりと取れていった。
変わりに、さくらの胸にむやむやとした物が浮上し始める。
さくらは時計を確認した。時刻はすでに十二時半を過ぎていた。約一時間半もの間、さくらは光夫と長電話をしていた事になる。
使い始めてまだ一カ月しか経っていない携帯電話をじりじりと眺めながら、さくらは対人用ではない笑みを浮かべていた。
しかし、やはり……。
どこかではまだ、それが取れない……。
さくらはベッドに横になり、眠くなるまでの間、携帯電話を駆使して遊ぶ事にした。
「私がちょっと変なのかなぁ……」
しげしげと見つめる携帯電話に、恐怖調なメロディを響かせながら登場した画面には、おどろおどろしいひび割れ文字で「深層心理の館」というタイトルが浮かび上がっていた。
9
2022年5月8日午後一時。さくらは約束通りの時刻には、約束通りの映画館に到着していた。そこで光夫の事を待った。
さくらは昨日、一番の出費にて購入した水色のキャミソール姿で映画館に訪れていた。慣れない足取りは、やはり、昨日購入したばかりの青いハイヒールのせいである。
緊張という言葉は知っていたが、それはやはり勉強文化に適応する緊張なのであった。こんな緊張は初めてである。さくらは昨夜、己で選択した筈の服装に心臓が張り裂ける思いであった。元々ロングパンツを好んで過ごしてきた二十二年間である。素足の露出は想像していた覚悟とは裏腹に、異常なまでの試練をさくらに叩き込んでいた。
映画館は人でごった返していた。約束の場所は館内の休憩場であったが、そこは来た時にはすでに陣取られていた。なので、今はそこから少しだけ離れた場所にあるエレベーター前に立っている。そこで、絶対的な人嫌いを再確認している次第であった。
すでに時刻は午後一時半を回っているが、光夫は一向に姿を現さない。自分がど派手な格好でこんな状況に耐え忍んでいるというのに、と、一方的な文句を言ってやりたかったが、それは出来なかった。昨夜、携帯電話にて晩くまで心理占いゲームに没頭してしまったのである。そのまま、気を失うように甘い眠りへと落ちてしまったさくらは、昨夜から携帯電話を充電してきていない。よって、今手提げ鞄に入っている携帯電話は、文字通りただのガラクタでしかなかった。
さくらは昨日購入したばかりのピカピカの腕時計を確認する。煌びやかな腕時計は、深刻な時刻表示を精確に主人に伝えた。
昨夜、なかなか寝付けなかった為か、つい溜息が多く洩れてしまう。ショッピングの疲労も程ほどに残っていた。
さくらはちらりとエレベーターを確認した。しかし、降りてくるのは知らぬ顔ばかりである。
再度、溜息を吐いた。どういうつもりなのかと、不安よりも苛立ちが先立つ。恋心なる物は確実に抱いているものの、こういった場合、それはやはり長い年月が培った友人としての感情が強く機能するらしい。
さくらは決心するかのように短く溜息を吐き、売店カウンター近くの公衆電話へと向かった。
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ