アルスカイダルの非常階段
さくらは走り出すと同時に激しく転倒した。熱されたアスファルトに、膝の皮膚が擂(す)れて破れた。破線上に赤い血液がすぐに滲み出てくる。痛みはないが、どうやらハイヒールのかかとが片方折れてしまったらしい。
信号はいつしか歩行者達に青を示すだろう。
さくらはアスファルトに散らかった私物を荒く鞄に押し込み、破損したハイヒールで無理矢理にそこから逃げ出した。
間違いはない、それは映画館の中で、さくらを監視していたのだ……。
『いつ吹くかわからない突風はすでに吹き始めているのです。逃げる事はできません。それは会社が許さないのですから、突風には立ち向かうだけ、わかりますか?』
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涙の代わりに心臓が激しく躍動する。弁膜に血液の激流が轟轟と流れ込んでいるのがわかる。
激しい葛藤が、己の欠陥を荒々しく刺激する。どうして、自分は……。
気が付いていた筈だ……。
可笑しいとは思っていた……。あんな歓迎会は、最初から有り得ないと、違和感を覚えた筈じゃないか……。
『いいですね、歓迎会でデザートを食べなさいと言われればそれらを平らげるつもりで食べる。なはは…、カラオケで歌えと言われれば歌うんです。社交辞令とは、思わないでくださいな、これは、もう恒例となっている行事なのです』
通り縋(すが)ったデパートに飛び込み、そのまま大声で助けを求めようかと一瞬だけ迷ったが、それは出来なかった。計り知れない恐怖感が勝っている。脚を止める余地はなかった。
今にも破裂してしまいそうな肺胞が、かん高い悲鳴を上げている。日頃の出不精(でぶしょう)が両脚の回転力を限定していた。
致命的だったのは、さくらのその体力である。運動不足という自覚から一度も外れた事のないさくらは、ものの五分間も全力疾走すれば、もう体力という体力は残らない。
「すっ…すみませっ…‼」
途中何度もマネキンを薙ぎ倒した。ガラス製のショー・ケースにも突っ込んでしまいそうになった。さくらはそのままの勢いでデパートを出る。
デパートの反対側は、すでに見知らぬ景色になっていた。一瞬だけ走行を躊躇した時に、さくらはすでに収縮してしまっている両脚の筋肉にようやく気が付けた。
激しく、矢継ぎ早に呼吸を回転させる……。
自分に注目している街には眼もくれずに、さくらは必死で逃げ道を探した。ふと膝の傷口に眼をやると、皮膚に伸びたまますでに乾いている血液の上に、真新しい血液が流れ出ていた。
突然に、巨人の怒号のような恐怖が頭に蘇った。さくらはすでに抱えていたわき腹を強く抑え、その顔を苦痛に歪ませる。
ふっと後ろを振り返ってから、捕まった時の事を大雑把に想像して、また走る事を決断する。そうでもなければ、とてもこれ以上は走れなかった。
身体ごと、勢いよく、真後ろに反転させた……。
『逃げる事はできません』
さくらの顔が、徐々に、熱湯をかぶったかのように絶望に凝固した。
居る……。
『R-スカイダールに非常階段はないんです』
さくらは当然の事のように走り始めた。そうしなければ……、きっと殺される。
もうどこに向かって走っているかもわからない。口は大きく開き、酸素をより強力に吸い込む事だけを意識している。興奮状態にある為か、アスファルトで擂り破った膝や肘の痛みはなかった。右か左か、上か下か、階段をのぼれば、またおりる。建物に飛び込めば、また飛び出る。方向感覚はもはや麻痺に近い状態であった。逃げ道を瞬時にして見極めるだけになった視野は、悲劇的に狭く、もはや人間の視野範囲とは考えられない。方向感覚機能が正常であり続けるのは、前か後ろか、それだけであった。
走り続ける苦痛がどれほどに続いた頃か、気が付けば、さくらは地元駅から少しだけ離れた場所にあるコンビニエンス・ストアに居た。
しかし、それは店内にではない。コンビニエンス・ストアが建つ、その脇に出来た、マンションとの細い隙間路に、ゴミと一緒になって、さくらは身体を隠すように埋めていたのである。
きつい刺激臭に、臭覚神経がずくずくと痛む。反射的に瞼をも閉じたくなるような刺激臭である。どうやら近くに、まだ新しい嘔吐液があるようであった。酔っ払いがここで吐いていったのだろう。
唇を強く噛んだ時、静かに涙が頬を伝い落ちていった。
光夫は、おそらく……、もう生きてはいない。
それだけじゃない……。他の同期のみんなも、すでに事切れた状態なんだ。
次は、間違いなく、私の番だった。
『この催しが始まって以来、毎年うまいように会社の業績は向上しています。これを…、やんなきゃ、ダメなのです。なは、なっはははは――』
理由という理由がどうしても思い浮かばない。でも、それでも、それだけは間違いがなかった。
出張に出たと言っている会社のみんなは、その全てが私の同期の人達だった。その人達はみんな、歓迎会の脱落者だ……。
『採点の低い順から、皆さんには消えてもらいますので。――』
わけがわからないままにやらされた、あの歓迎会のゲームで、負けた人達……。それが、出張に出た人達の正体だ……。
脱落者の烙印を捺された次の日……。それが、出張だ……。どんなに切羽詰まった事情があったとしても、同居している家族に本人からの出張連絡がいかないというのは、つまりそれを意味しているからだ。
連絡しても、もう……。指が、動かない……。
どうして……、どんな目的で、会社は私達を……。
さくらは、声を殺したままで泣き崩れる。そこから垂直に延びる細長い景色には、感情のない住宅街が冷徹な静寂をつくり出していた。
今年、R-スカイダールは正式な新入社員の募集はしていなかった。それは世間的にも明らかになっている理由から……。不景気のあおりをまともに受けてしまった大会社なんてものは、意外にも脆く、呆気ないものだった。それでも、私は社会人としての第一歩を、理想と信念の元に実現させたかった。就職するならば、アパレル。アパレルならば、R-スカイダールと決めていたんだ。
就職活動をしていて、本当に辛辣な大打撃だった。R-スカイダールは新入社員を募集しない。と、そう大学側に告げられ、私は次の希望を考えなくてはならない事になった。
それでも、やっぱり私は、諦められなかったんだ……。同じくR-スカイダールを第一希望としていた光夫と、私はR-スカイダールの本社に直接それをききに行った。そうすれば、どうにか諦められると思っての、二人で取った強硬手段だった。
R-スカイダールは即日、本社を訪ねていた私達を新入社員として採用してくれた。どうしても新入社員が零というわけにはいかず、5月から様子を見ての少数精鋭の募集をかけるつもりだったらしい。その検討が認められた日に、私と光夫は運よくその本社を訪れていた。
つまり、その日の私達のように、本社に自らの脚を運び込んだ人達が、今年のR-スカイダールの唯一の新入社員だった。そう、それが私達だった……。
さくらは悔しさに塗れた泣き顔を、アスファルトに俯けながら、その細い脇路を出た。
世間的な、正式採用ではなかったのだろう。
騙されたのだ……。
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ