アルスカイダルの非常階段
そんな事はこの世の中に、信じられない程に存在していると大学で学んだ。それは事実存在していて、現実には信じられない事で、そして、信じ難いほどに、一般に溢れている。
人身売買。狂人の起こす無差別殺人。違法臓器売買。国家単位での隠蔽工作(いんぺいこうさく)。数え上げればきりがないという事を学んだ。おそらく、今自分に降りかかっている信じられない事実というのは、人身売買に近いものだろう……。
実験体。労働奴隷。娯楽の玩具。それを数えても、きっときりがないだろう……。でも、これは事実だという。テレビで報道されている『行方不明者』などは、みな隠蔽(いんぺい)を必要としない類の物がほとんどなのだそうだ。つまり、それは個人単位での『殺人』という事になる。隠蔽を必要とする『行方不明者』、つまり人身売買に巻き込まれた人間は、生涯テレビには取り上げられないだろう……。
串刺しにされようが、新しい殺人兵器の実験体にされようが、娯楽として拳銃で撃ち殺されようが、それはもう、その『人間を買った』主人の自由にされる……。
企業がらみでの可能性は、いつの時代にも否めないと、大学ではそう学んでいる。
理由という理由は……、ないに等しい。けれど……。R-スカイダールは、今、何よりも多額の、巨額の、そう……、人の命よりも、おそらくはお金が必要なのだろう……。
可能性は、そろってしまった。さくらはすでに涙の乾いている頬を、手のはらで拭い、真っ直ぐに、コンビニエンス・ストアの駐車場に置かれた公衆電話に向かって歩き出した。
泣いている暇などは、もうないのだ。
それを、その、真実とはまだ完全には肯定しきれていない真実を、美緒に伝えなければならない。
公衆電話は故障中であった。
知っている電話番号は、もう美緒だけであった。他の電話番号を知っている同期は、すでに出張に出掛けている……。
死ぬわけには、いかない……。死にたくない……。
さくらは路で左右を確認してから、その駐車場を出た。
携帯電話は充電切れで使えないが、逃げながら、私は美緒にこの事を伝えなければならない。次の公衆電話を……。
伝えるんだ……。
死ぬのならば、それからだ……。
でも、死にたくない……。
脱落者から消えていくシステムになっている。それが歓迎会だったのだ。三十人という少数だけを、入社と採用していた時点で、気が付けばよかった。
いや、それ以後にも、何度もあったじゃないか……。
さくらは背後を気にしながら、徐々に走る速度を上げていく。住宅街には何の変哲もない日常の光景があった。
私と光夫は三位通過……。この前の歓迎会が、私達にとっての、最後の歓迎会だったんだ。もしかしたら、違うのかもしれない。でも、いずれは消される運命にあるのだろう。
誰かは、もうすでに……、殺されているのかもしれない。
きっと、殺されているだろう。
生きていても、絶望的な事に変わりはない。
勘違いというには……。
どうして…、こうなってしまったんだろう……。
殺人鬼が、私を捕らえに来る……。
どうしてこんなに現実感があるんだ……。勘違いだと思い込みたいのに、脚が止まらない……。『あの人』が、私を殺しに来る……。
公衆電話を求め彷徨い走るさくらの顔は、すでに常軌を逸していた。その腕は筋力を維持させながら、その勢いを励ましているのだろう。その鼻腔は、口から吸収される酸素をより多く吸い込む為に手伝っているのだろう。その脚は、勝ち残る為に、許されぬ非常階段を探し求めているのだろう。
その頭脳は、記憶を垣間見て、恐怖しているに違いない。耳には、あの軽く弾むような声が幻聴しているのかもしれない……。灰色のフードをかぶって、サングラスをしていた。マスクで顔を隠していた為に、それがどんな表情をしていたのかはわからない。しかし、その潜在的な背格好は、誰にも真似できないのだろう。
百五十センチ程の短身に、灰色のフードをぶかぶかとかぶっていた。腕の部分には余った洋服がだぼつきを作っている。
警察関連は避けなければならない。それ程馬鹿な相手ではないだろう。さくらは切れる息をそのままに、右往左往を繰り返しながら、公衆電話を探す。
美緒と、生き残る為に。
自分が生きているという事は、二位の美緒もまだ無事でいるという事になる。残された者は、生き残らなくてはならない……。
さくらは洪水のように垂れ落ちる汗を荒々しく腕で拭い落し、更に先の路に公衆電話を求める……。
どこかで無意識に、懐かしい鬼ごっこを連想しながら。
捕まった途端に、鋭利な刃で切り刻まれる、およそ鬼ごっこと相違した映像を垣間見ながら。見知らぬ国へと拉致され、監獄で言葉にもしたくない悍(おぞ)ましい虐待(ぎゃくたい)を受ける想像をしながら。
体力の限界に嗚咽をもよおしながら……。
さくらはそれをゲームの続きであると、実感していた。
誰からでもよかったのだ……。
勝ち進むだけ、生を延長できるという、狂人のシステムだったのだ……。
優勝とは、一番最後に消される事だったのだ……。
さくらはいつの間に飛び込んでいた公衆電話にて、絶望的な勝利を悟っていた。しかし、敗北は最後まで受け入れない。どこかではすでに強烈な死を連想しているものの、やはり真意では死を拒絶していた。
さくらは強く生のイメージを頭に思い描く。隠蔽(いんぺい)の疑いがある以上、警察署には飛び込めない。その強く念じられた生のイメージは、この状況的にこの公衆電話に集中されていた。
生はそこにある。全ての活路はそこにある……。
さくらは耳に強く押し付けるようにして受話器を当てがいながら、自分自身に強烈な復唱を唱えていた。電話の向こうで、美緒の声が、今にも元気にさくらを迎えてくれる事を、念じるように思い描きながら……。
10
129……。130……。131…、132……。133…、134、135人……。香水の香りが、仄かだが、します……。
136……。137人……。ああ、今度こそ、そうかもしれないな……。何人目に、会えぇるのかなぁ……。
ヘリコプターの轟音が遠ざかっていくような、それは都会の日常茶飯事。高波に防波堤の強度を確認する必要はない。全てはなりゆきのまま、ですよ。高層ビル群がそこには密集し、日射は人口密度を手探るように熱源地帯を増やしていく。
強度と柔軟を持ち合わせた集合体は、その、集合体にと、人間を搔き集める。
いつでも、そこには人間がいた。
176…、177……、178…、179…、180……。
185………192………199………100人目。
匂うなぁ……。記念の100番目…、こういう感じは捨てた物じゃない……。
楽しいなぁ……、楽しいな、楽しいなぁ……。
人間は人間を求める。それは太古から定められた性(さが)で、決して観念ではない。
地震を避けるために、人間は人間ならぬ偶像を創造する。それは人間ではなく、人間ならぬものとして崇められた、人間の容(かたち)をした偶像だった。
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ