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アルスカイダルの非常階段

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 神も、仏も、精霊も、それは全て人間の姿を調節した偶像である。恐怖を抱く地獄絵図にも、人間がいる。
 そこでは人間が殺される。嘔吐を繰り返し、苦痛を耐え忍ばせ、更に血液を連想する。鬼が殺すのだ。赤く満ちた牙で、人間に憤怒をまき散らし、振り上げた棍棒で微塵に擂り潰す。
 鬼が殺すのだ。そこでは人間は殺される。鬼が殺すのだ、人間の姿を調節した、鬼が殺すのだ。

「ええ、ええ。汚らしい格好をしているんです。水色の…なんていうんですかね、薄着のドレス? そんなのを着ているんですけど」
「ええ、その方でしたら、先程携帯電話の充電器を買っていかれましたけども」
「ああ、そう、わかりました。助かりましたどうも」

 101……………102………………。
 始めから、そうすればよかったんだよ……。
 公衆電話より、確率が高くなる103……じゃないか……。
 もうすぐです……。
 会えますよ……。
 楽しいな…、楽しいなぁ…、楽しいぃなぁ……。

 人間は人間を求める。それならば、密度の高い場所が手頃だろう。
 全てが求めるのならば、それは当然の方程式によって、いつか見つけられる事となる。
 絶対的、優先順位。後に残る者を……餌食(えじき)とする。後に残る者こそが、絶対的強者。それが生物に共通する絶対的な優先順位である。
 強者とは生物界においての正当な支配者、つまり、正解に最も近い存在である。
 正解だからこそ、それを選ぶ価値は生まれる。
 価値があるものを……、餌食とする。

 近いぞぉ……、楽しいぃ…、もうかなり近い……。
 293人………300人。記念番号には間に合わなかったけど、それは君の運だからね。
 もう近い………。
 近い……。
 どこにいる……。
 どこだ…。

 人間が生物である以上、後に残るものを優先する方程式は正当化される。
 それこそが美学であり、それこそが報酬である。
 人間は、生物である。
 生物は己ならぬ者から生を盗み、そうして生を持続させる。
 生物は常に、次の餌食を探しているのである。

       12

 出張に出ましたけども……。

 はい…、間村さんっておっしゃる方から、わざわざ電話を頂きました。

 あ、兄貴、出張に行っちゃったんですけど……。

 繋がるどの電話もが、痛烈な事実を突き付ける。残ったのは、確実に……。
 美緒、早く電話に出て……。
 レンガ壁の路地を、かかとの欠けたハイヒールでさくらは行く。その先に雑踏が聞こえる。壁の間の先に、行き交う車が見える。今はそこに出る事を優先しよう。
 人目の多いそこでは、やたらと可笑しな真似は出来ない筈だ。
 だけどどうして、美緒は電話に出ないの……。

 はい、後木です。

 はい、石井です。

 はい、冨里です。

 出張に行っています。

 結局はこうするつもりだったんだ……。誰かが一人でも、気が付けていればこんな事には、ならなかったのに……。
 汗を搔き過ぎた洋服が気持ち悪い。こんな服、着てこなければよかった。どうして、私は浮かれる事なんかができたんだろう。あの時……、始めから、私はその部屋に入った時から、あの変哲な部長には違和感を覚えていたじゃないか……。
 眼が回る…。気持ち悪いよ……、早くどこかで休みたい……。
デパート、デパート…、店……。電気屋…ああ、ダメだ、そんな場所じゃすぐに見つかる。もっと、違う場所を……。
どうして誰も助けてくれないの?
 私はこんなにボロボロなのに…、どうして?
 後ろには殺人鬼がすぐそばまで迫ってきてるの……。
 助けてよ――。

 出張に出たらしいんですけど…、本人からの連絡がまだないんですよ。夜には連絡くるかしらね、……ええ、突然みたいだったわね。いろはとおんなじ課に働いてるの?

 はい、三上です。………ええ、……ええ、はい。出張に出ています。

 もう、体力が底を尽きたから、今度は私の番なんだろう……。川﨑さんも、いろはちゃんも、三上君も……、光夫も。――殺されちゃったの?
 殺されたなん、て、言いたくないけど、そんなの……死んでるのと、一緒だよ……。
 いないんだ……――いないんだ、いないんだ、いないんだ、いないんだ――。
 私もどうせ、もう逃げる力なんてないんだ。このまま、あそこの通りに入って、そこで少し休もう……。
 声なんて出せなかったな……。
 そうだと思った…、声なんて出せないよ……。
 みんな、私となんて、関わりたくなさそうな、眼をしてるんだし……。
 私はもう社会から消える存在なんだし……。
 たぶん、そういう運命なんだし……。
 声なんて、最後まで、出るわけ、ないから……。
 疲れた……――少し、休もう。それで、考えよう……。

 駐輪コーナーが片脇に延びるタイル路面に、さくらは倒れるように腰から崩れ落ちた。
 さくらの背では、長方形に象(かたど)られたパチンコの看板が、チカリチカリと時計回りに電球の発光を巡回させている。タイル路面を挟んだ、正面側の歩道路からは、幾つにも連ねた視線が、さくらを遠目に注目していた。
 まるで、古びた操り人形のように、さくらは、ぎこちない、鈍鈍とした動作で、携帯電話を見つめる。
 さくらのすぐ近くを、スクーターが走り去っていった。排気ガスが鼻先につんと刺さる。数える事をおよそ不可能とする数多の人影が、幾度も幾度も、さくらのそばを通り過ぎていく。
 看板脇に設置されたパチンコ店のスピーカーが、タイル路面の雑踏を巧く掻き消してくれている。その音響に、実にマッチするかのような各店々のネオンライトが、タイル路地の路面上をオレンジに染めていた。
 見上げれば、ちょうど今の空もそんな色をしていた。
 さくらは耳元にはり付けた、その携帯電話の音声だけに意識を集中させる。
 すでに、体力は残っているのも怪しく、そして難しい。呼吸は止まらないが、両脚の脹脛(ふくらはぎ)が強烈にきしんでいる。思考する事は可能であるが、立ち上がろうとする意志はなかった。
 さくらはその音声に、今にも拡散してしまいそうな意識を搔き集める。
 その意識だけを、集中して集めた。
 脳裏には――美緒――のフレーズしか浮かんでいない。
「あの…、遠藤と申します。美緒さんい……同じ会社の者です。美緒さんは、いらっしゃいますでしょうか?」

 ゆっくりと立ち上がって、歩道上の赤いパイロンに手を添えた。何かで身体を支えていなければ、今にも倒れてしまいそうだった。
 限られた体力で、どこまで太刀打ちできるだろうか。辺りの人けはどことも変わらない。ここで人がもめ始めれば、誰もが気付く事ができる。
 しかし、それにおいての心配は無用なのだろう。社会とは、そういう物なのだ。
 これが、キチガイの言っていた、突風なのだろう……。さくらは抑えられぬ激怒を携帯電話に向ける。
 その画面には――〈間村部長〉――と表示されていた。
 それは全ての新入社員が面接官に教えられた番号なのであった。
 元気がいいと、履歴書を窺いながら微笑んだ顔。
 それが間村であった。

 美緒? ……――友達?

 はい、同じ課に勤めています…。

 なにも聞いてない?

 ……はい。