アルスカイダルの非常階段
美緒なら……――。
さくらは携帯電話を耳に付ける。携帯電話の発光ダイオードが紫色に点滅を打つ。
武器がないのなら、喉笛に噛み付いてやる。こんなに一方的な犯罪行為を突風というのなら、誰もが無抵抗ではない事を、この命で、証明してやろう……。
耳元に声が囁いた。
さくらの腸(はらわた)に、未(いま)だ嘗(かつ)てない怒りの炎が火柱を上げる。
それは実に耳障(みみざわ)りな軽い笑い声であった。
「もしもしぃ……。誰ですかぁ?」
恐怖と憤怒とが、激しく葛藤し合う。
「んんぅ? ……だぁれぇです?」
さくらの鼻筋(はなすじ)には筋肉がはっていた。眉間(みけん)は反りあがり、頬には疲労した涙が伝う。
「……遠藤です」
「はいはぁい。どうかしたぁ? ……なに、こぉんな時間になってから、電話かぁ、なはは」
「……どうして、ですか」
「……ああ、気が付きましたねえ…。それでこそっ、期待の新入社員です」
癇癪(かんしゃく)を拒絶させるようなその声からは、手に取るように、含み笑いが聞き取れる。
「どうしてですか……」
一言を発した時、さくらは急激な狼狽(ろうばい)を表情に宿した。
「こんな事をする、どうしてこんな事をするのか……」
心労が激流となってさくらの五感を破壊しようとする。
何も知覚されない――、何も匂わない――、何も感じない――。
何も――、何も――、何も――……。
「どの…遠藤君側の理由? それとも……、他の新入社員の方かな?」
奇妙でしかない声であった。何か、可笑しいだろうか。
死に絶えた筈のさくらの感情が、また、間村の声を強く意識する。
「勝ち負けを競ってもらいましたから…。採点の高かった遠藤君は、もちろん最後まで勝ち残りましたね。最後まで残った場合は、……六名でしたね。その中から、優先的に順番を決定しました」
拒絶反応を起こす鼓膜が痛く感じた……。涙腺は悔しがっている。収縮した腰下からの筋肉は、そのまま地面にまで神経を延ばし、その怒りを発散させる。
子供が地団駄を踏むように……。
大人が壊れてしまったように……。
脚を突っ張らせて、さくらは何度もその地面に足音を立てた。
「いま、……どこに、いるんですか……」
「なぁっはははははは」
一瞬の殺意――、さくらの心臓は致命傷を受ける。
「パチンコだねえ」
全身の皮膚が、鍵爪で破られるような悲劇……。
「どこの……、パチンコですか」
「なはんぅ……。ジャンデールだよ…。パチンコジャンデール」
そう聞こえた時には、すでに携帯電話を手から放していた。
瞬間的な震えに、一縷(いちる)の望みを……、真後ろの看板に託す。
振り返る……。
見上げる……。
看板はあった――。
パチンコ―JYANDERL―……。
過激な心拍数が、逼迫(ひっぱく)した状況を鮮明に刻み込む……。
いつの間にか彷徨(さまよ)わせていたその両目が、もう、それを捉えていた。
「人…殺し……」
十メートルもないだろう。それが居るのだ。
そう、間村が……。
深々とかぶられたフードから、顔の反面を隠したマスクの上から、それが笑っているのがよくわかる。クライマックスを迎えたピエロのように、至福の表情に口元が引きつりあがっている事だろう。
灰色のフード服はその短身には余りあった。
大きく、両手を天秤のように開き、こちらに意思を示している。
『採点の低かった方から、皆さんには消えてもらいますので――』
その灰色のフードが激しく左右に身体をくねらせながらこちらへと走り始めた。
さくらはタイル路面に膝を突いた……。
殺意のピエロは、何も知らぬ社会の歯車達を次々に追い越してくる。
ふと手に触れた携帯電話を無意識に掴み、さくらはその電源を落とした。
最後にふと、空を見上げた。――夕焼けがビル群の骨格に、オレンジ色の光沢をつくっている。
そのままさくらは顔を項垂(うなだ)れ、事切れるように眼を閉じる――。
最後に映ったタイル路面にも、夕焼けと同じオレンジが反映されていた。
暗闇となった網膜には、最後の残像だけが静止する。
瞬間的に入り込んだ灰色のフードと、オレンジのタイル路面。それは全ての残念を消沈させてしまうような、不気味な絵図らであった。
13
乱れなく陳列された家具は、全て壁際に置かれている。電源を落とされたまま、静かに画面を黒に静止させているパソコン。洋服(ようふく)箪笥(だんす)には、四着のスーツに八本のネクタイが掛けられている。
机と椅子が短い壁の一角に置かれている。テレビは机の上に置かれていた。
気が付くと、強い食欲を感じていた。いつからか呆然と見上げていた天井から眼を下ろし、右横の白い壁を一瞥する。しかし、そこには求める物はなかった。
ベッドから身体を起こし、今度は眼を擦りながら、部屋の全体をなんとなくで見る。ベッドの近くにある机の上、そのテレビの真横に、目覚まし時計が置かれていた。
しばらく時間を眺めたままでいたが、急な食欲にふと我に返る。
ベッドから下りると、まだ脚に力が入らない事がわかった。どうやら身体はまだ睡眠から完全には覚醒できていないらしい。
ドアのすぐ近くに流し台がある。無意識に眼がその方向を見ていた。流し台の正面はユニット・バスの式のトイレになっている。それと流し台を挟むように、ドアから短い通路がベッドのある寝室まで延びていた。
洗面台にまで来ると、今度はその下にある小型の冷蔵庫を迷いなく開いた。
冷蔵庫の中にはコンビニエンス・ストアのサンドウィッチが一つだけ入っていた。それを手に取って、またベッドの方へと引き返す。
ベッドに腰を下ろしながら、サンドウィッチの袋を剥がした。眼はテレビの横の目覚し時計を確認している。
時刻は、午後の六時六分であった。
ものの数秒でサンドウィッチを口に詰め込み終えると、すぐに絶妙な味覚を楽しみながらドアへと向かった。
ぼさぼさと立ち上がったままの寝癖を掻き毟(むし)りながら、廊下へと出た。静まり返った廊下には、茶色い木製の床と白い壁がある。そのまま呆然と歩き出そうとして、すぐにその足音のした方を振り返った。
静寂な廊下には、こちらへと歩いてくるそのスリッパの音がよく響いた。
「あ…おはようございます……」
まだ少し、寝ぼけているような声が出た。
「トイレって、ここの突き当りでしたよね……」
すぐ眼の前で止まったスリッパの男は、そのぼけた言葉に苦笑をもらした。
「トイレなら寮室の中にあるだろう?」
「え…。あ」
スリッパの男は更ににやけて言う。中年を思わせる口周りの皺が、魅力的に湾曲を描いていた。
「君は…、確か戸島君、だったっけ?」
「あ…、はい」
「今日はまだ寝ぼけてていいけど、明日からはビシっとな」
「うぃっす」
「昨日晩かったから言えなかったけど、明日、月曜だからぁ……、七時には起きてて」
「はい」
頭を掻きながら、頷いた。まだ完全には眼が冴えていなかった。
「晩かったっつっても、もう今日だもんな? ちゃんと寝れたか?」
「まあ……、多少は」
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ