アルスカイダルの非常階段
「実地研修は短いが、短いんだから、そのぶん気を引き締めてな」
「はい」
気を引き締めた返事を返すと、スリッパの男は肩をポンと軽く叩いてから、また廊下へと脚を進めた。
それを見送らずに、すぐに寮室へと戻る。
「ああ……そっか、これトイレだ……」
トイレのドアを開いた時に、明日からの短い出張期間を短く想像した。
「売ればいいんだろ…、売ってやるさ」
すぐに用を足し終えて、洗面台の鏡に向かって小さく気合を入れた。
「時代を先取るニューパワー……」
しかし、それで終わってしまった掛け声には、いまいち、何かが足りないような気がして、何だか物足りないような気がした。
14
ざわざわと暗い視界に、人々の声が広がっていた。
さくらは眼を開く。
「な、ななな……、なんなんだよっ、お前はぁ‼」
「君こそ何だ! 急に体当たりなんてしようとして、危ないじゃないか!」
オレンジ色に染まったタイル路面は、すでに所々でしかそのエモーショナルな夕焼けの色はもう見えなかった。そこを人の脚が埋めている。
眼を閉じたつい先程とは、今の何もかもが違って感じられた。
変わっていないのは心拍数だけである。
「488人も数えてついに捕まえたんだっ‼ 500人目がよかったけど…、これでも上出来だ。家を出てくる時はゼロから始まって、人とすれ違う度に1をカウントしていく、それでついに百を超えてっ、やっとターゲットを見つけたんだっ‼」
「何を言っているんだ君はっ! 自分が何をしでかしているのかわかっているのか!」
さくらは顔を項垂れたままで、真下の地面を見つめていた。
間村部長の声が聞こえる。そう、その筈なんだ……。
けれど、それは、私の、すぐ後ろから聞こえる……。
「この女の子は僕のもんなんだよっ‼ 映画館でぴぴぴぴぴーんってきたんだからぁっ‼」
さくらはその言葉に顔を上げた。
すぐ眼の前で、薄気味の悪い笑みを浮かべた男が、尻餅(しりもち)をついて怒鳴り散らしている。
灰色のフードをかぶって、こちらとさくらの背後の人間を見比べながら、可笑しな事を口走っている。
ピエロのように引き吊り上がったその口は、違う……。
そのは間村の顔ではなかった。
「付き合ってはいないんだろう? フリーなはずだよう? 僕は人間観察が得意なんだから、君はまだ誰の物でもな~いはずなんだよ~」
さくらは絶叫的なその不気味な頬笑みに、その場を回避するように立ち上がった。
しかし、疲労しきった脚にはうまく力が伝わらず、すぐに体勢を崩してしまった。
「あ…」
両肩を優しく、そして力強く支えてくれる手の感触が、すぐにさくらの身体を助けていた。
「いい加減にしなさいっ! 皆さん、この男は彼女に卑劣なストーカー行為を働いています! 手を貸してください!」
さくらのすぐ後ろから激しく叫んでいるその声が、さくらの肩を優しく支えていた。
さくらは後ろを振り返った。
「一体どうしたんだ……。なんでさっき電話していた時に、この事を言わなかった」
そこには、悲劇的にさくらを心配している、間村部長の顔があった。
真っ白になってしまった思考回路には、もう何も浮かんでこない。
ただ普通に、ごく自然に首の角度を元に戻すと、そこに叫び散らす男の姿があった。
それが今まで自分を追いかけていた男だった。
その見知らぬ短身の男は、数人の凶悪そうな若者達にめっためったに蹴り弄(もてあそ)ばれている。
耳元では、間村部長の安心感を誘う声が何かを言っているが、やはり、まだ何も考えられない。
短身の男は、顔面を鮮血に染め、やがて若者達に引きずられて、パチンコ店の裏の路地へと姿を消していった。
さくらの顔が、間村部長をしっかりと捉えた。思考回路が真っ白なまま、さくらは間村部長の顔をしっかりと見定める。
クリーム色のセーターと、茶色いスラックス姿であった。そのやけに強調された短身は変わらないが、いつものようなにこにことした表情はなく、その前髪も眉毛の上に下ろされていた。
「あの…部長…、これは……」
「一体何があったんだ? ああ、怪我をしちゃってるじゃない、とにかく、病院に行こう」
放心状態に固まったさくらの手を、間村部長が引っ張る。
「あ…、怪我は大丈夫です」
咄嗟にそう言うと、間村部長は心配そうな顔でまた立ち止まった。辺りにはまだ人だかりが出来ている。パチンコ店の路地の入口にも、ここと同じくらいの人だかりが出来ていた。
「どうしたの、何があったの?」
「………」
「いいって言っても、怪我は手当てしないといけないから、病院が嫌なら、話しながら君の家に向かおう」
タクシーの中では泣きっ放しであった――。
間村部長の口から数奇的な全ての事実を語られると、さくらの恐怖は一変し、歓喜の涙が胸に押し寄せていた。
小さな疑問が、全ての恐怖の始まりであった。
「違うんだ。あの歓迎会はね、新入社員の、限られた出張候補を決定する為のものなんだよ」
疑問は、あやふやなままに現状を追求し、やがては壮大な疑念へと姿を変えてしまっていた。
「我が社オンリーの販売店舗は、数に限りがあるだろう? 今年は社員数を絞っているからまだいいけど、本当なら、ごく限られた新入社員しか出張には出せないんだ」
壮大な疑念に照らし合わせた現状は、数奇的な偶然を味方につけ、ついに幻想の恐怖をつくり出してしまったのであった。
「出張というのは、つまりアルダの店舗においての実地研修だね。実際に我が社の店舗に行って、じかに販売を体験する事によって、客のニーズや今後のアルダへの販売員、客、等々の要求をこれからの仕事に役立てるのです。これは俗いう出世コースというやつですな。これをこちら側で全て決定するという事は、選ばなかった全社員達のチャンスを奪い取ってしまう事になるでしょう。だから、それを決める為にね、うちはああいった面白い志向で『歓迎会』、つまりはラッキー社員を決める『選出会』をやるんですよ」
些細な行き違いが、全ての歯車を破壊していた。現実はすぐそこに在り、在り続けているのにもかかわらず、もう見えない状態になっていたのである。
「もちろん、今年の場合は社員数によって例外だったけど、いつもならば、始めに社員達の能力を踏まえて、数を限定しているんですよ? それが初回にやる歓迎会だね。だから次回からは、すでに三十人に絞ってからのスタート。ここからが、うちは毎年新入社員達のガチンコなんだよ。遠藤君達は、そこからのスタートとなったわけです。今年はすでに採用段階で能力を重視したからね。数もちょうど三十人という定数であったし。実に楽ちんが出来たよ」
さくらは目頭を熱くしながら、尋ねる。
「歓迎会で脱落した人から、出張を決定してたんですね……」
間村部長は頷き、さくらの頭を優しくなでた。
「二十九店舗という端数には、一人が絶対に出世コースへの近道を外れてしまう事になる。歓迎会の優勝には、そんな残念賞の思いも込めてあるんだよ」
さくらのその涙には、実に透き通った感情が込められていた。
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ