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アルスカイダルの非常階段

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「歓迎会内容が社員達にわかってしまうと、社員達はわざと計算的に負けてしまうからね、誰でも店舗出張には行きたいんだから……。勝ち残る人、つまり、君達には、最後までその事実を隠しておく必要があったんだよ。だから出張者は緊急事項で出張命令を受けるし、脱落者以外の電話には出ないという命令を受けている。驚かしてしまったね」
 さくらは首を振った。そして、眼を手で隠したまま、また短く首を振る。
「最初から二十九人まで絞って、出張先を決めてあげればいいのだけど、何年か前に、見破られてしまったんだよ。確かに二十九という端数は可笑しいし、もろにうちの店舗数と同数だからね。あんなぎりぎりの怪しい歓迎会ではわかってしまう。社員達の可能性を考えて、平等的なチャンスを与えたい一心の歓迎会なのに、わざと先に脱落されて、東京の店舗、東京に近い店舗と、そういうふうに選ばれたんじゃあ趣向が違ってきてしまうからね」
 間村部長は心配そうに声を和らげていたが、さくらのその泣きべそには、実に幸福そうな微笑が浮かび上がっていた。
「さっきも電話で言いかけたんだけどね、最後の六人に絞られた時点で、いつも会社側が最後の五人を決定するんだよ。残っているのはみな能力の高い社員達だからね、誰が行ってもいいのだけど、最後までが遊びというのは、やはり無理がある。しかしね、君は能力の有無によって外されたわけではないからね。君は新入社員の中でも群を抜いた潜在能力を持っているんだから、しゃんと胸を張っていい」
「はい……」
「本社に残ったからといって、これから全く出世コースから外れてしまったというわけではないからな、チャンスはこれからいくらでもあるし、本社に残った事で他と付けるべき差は必ずあるんだから」
「はい…。わかりました、ありがとうございます」
 顔を上げたさくらに、間村部長は明るい含み笑いで頷いた。
「それにねえ、一応優勝は優勝だから、ちゃんと記念品は授与されるんだよ。なはは、得もちゃんとあるから心配しないように。確か……今年モデルの、手提げバッグだったかな。もちろん、R-スカイダール、アルダのね。金一封は、僕のポケットマネーから出すから」
 もう、さくらの笑顔はしっかりとした物であった。
「はい」
「半年もすればまた同じような昇進段階が待っているし、なははは、得に思えば、得かもしれないぞう?」
「がんばります」
「なはは、うん。がんばってくれたまえ。なはは」
「ふふん」

 タクシーが自宅に到着すると、さくらは何度もストーカーの一件に頭を下げ、そのまま間村部長を帰した。
 玄関に上がって、そのまま風呂場へと歩いている時には、苦手であった間村部長の声とその容姿が、もう苦手でもなんでもなくなっていた。
 膝の傷口にシャワーを当てると、少しだけ痛みを感じたが、すぐに何でもないと傷口を綺麗に洗った。
 あちこちに作っていた擦り傷をシャワーで洗い流し、粘りつくような汗も綺麗さっぱりと洗い流した。
 風呂から上がり、柔らかなバスタオルで身体の水滴を拭き取っていると、ふと脱衣篭に脱ぎ捨てられている、薄汚いぼろぼろの青いキャミソールに眼が止まった。
 キャミソールを洗面台の脇にあったごみ箱に捨ててから、さくらはタオルで髪を丁寧に拭きながらリビングに向かった。そこでパジャマに着替える。冷蔵庫と眼が合ったが、食欲を全くといっていいほど感じなかったので、そのまま部屋に帰った。
 部屋のドアを閉めたまま、さくらはそのドアに背を付けたままでぼうっとした。
 その部屋には、朝のままの光景があった。
 ベッドに脱ぎ捨てられたパジャマ。
 洋服がはみ出したままで閉まっている洋服箪笥。
 化粧棚の上に倒れている数本のマニキュア。
 床に散らかった包装紙と、紙袋。
 それは何の変哲もない、ここを出て行った時のままの、さくらの部屋であった。
 ベッドに倒れ込むようにして、さくらは泣いた。次々に込み上げるその涙こそが、真実の生還を実感できた証なのであろう。
 枕に顔を埋めたまま、声を最小限に抑えて、一所懸命に泣いていた。
 感じている筈の食欲をしっかりと感じとれるようになるまで、さくらは生涯で最高の涙を噛みしめていた。

   エピローグ

「えーこれさあ……」
 さくらはしかめっつらで、ビニールに包装された箸(はし)を睨む。
「普通に、デパートとかで売ってない?」
「売ってても買わないでしょ~、あんたはぁ~」
 美緒はキーボードを打ちながら、テンポよく答えた。
「だから私が買ってあげたんじゃない」
 さくらはその箸と、もう一方の手に持っている箸を見て、更に顔をしかめる。
 美緒はディスプレイを見たままで、隣のさくらに言う。
「じゃあ何、お婆ちゃんの湯呑みとかの方がよかった?」
「いや……。名産物とか」
「食~べもんなんてそっこら中で売ってんじゃ~ん」
 美緒はディスプレイから、さくらへと顔を向けかえた。
「さくちゃんはそれ買おうとしないんだから、絶対それの方がいいんだって」
 美緒は最後に「それは食べてもなくならないしね」と付け加えた。
 さくらは美緒に言われるがままに、書類を他のオフィス・ルームに届けるふりをして、廊下へと出た。
 ポケットには、その美緒の出張土産が入っている。
 美緒に言われたオフィス・ルームを目指している途中で、さくらは用のある人物を給水室にて見つけた。
 さくらはその男を睨んだような顔で、給水室に入る。
「なに…。また文句言いに来たの?」
 光夫はそう言って、困ったように苦笑した。
 さくらは一向に変わろうとしない表情のままで、ポケットから美緒のお土産を取り出した。口をふんじばっているが、これは例によって接吻の要求ではない。
「はい……。美緒のお土産」
 さくらはそう言って、うんむと頷いた。
「私も貰ったから……」
 さくらは、さっさと給水室を出ようとする。
「はい、渡したよ。お礼言うなら自分で言ってね」
 さくらが廊下に出ようとした時、光夫がそれを呼び止めた。
「ん?」
「すげ~……。超絶偶然なんだけど」
 光夫はよくわからない無表情で、床に置いてあった紙袋から、それを取り出した。
「これ、お前のお土産」
「あ……、どうも」
 さくらは戸惑いながら、それを受け取った。それは『サクラちゃん』というコピーの入った、小さな茶碗であった。
「これで飯食うのか」
 光夫は、茶碗に見入っているさくらに苦笑してみせた。
 光夫がさくらに見せている箸には、『みつおくん』というコピーが入っていた。
 美緒から貰ったお土産の箸にも、『さくらちゃん』というコピーが入っている。いま光夫から貰った茶碗にも、『サクラちゃん』というコピーが入っていた。
 さくらは難しい顔で口をふんじばりながら、光夫に言う。
「あんたの…、自分のお茶碗も、買ってきたの?」
 さくらのこのふんじばった口は、例によってその要求ではない。
「買った」
 光夫は紙袋から、少し大きめの茶碗を取り出して苦笑した。
「ふん……。偶然だね」
 さくらは怒ったようにそう言い、給水室から出ようとする。
 すでにその顔の赤面は、限界に達していた。
「これで今度、一緒に飯でも食うか?」
 ふざけたように、光夫が言う。