アルスカイダルの非常階段
遠藤さくらには、同期、つまり同じく新入社員であり、しかも親しい間柄の仲間がいる。社交場を極度に避けたがるさくらには当然であるが、新たな仲間達とこの一カ月未満の間に打ち解けあう事はできない。つまり、その同期という者は、さくらと同じ大学からここに就職した、学生時代からの友人であった。
その男の名前は 戸島光夫 という。年齢はさくらと同じく二十二歳であった。お互いに留年はしていない。一年生の時から同じ学部、同じサークルの仲間であった。
さくらはまたPC画面に小さな溜息を吐いた。
光夫は、さくらの喧嘩仲間でもあった。喧嘩仲間とはいっても、仲の良いそれではなく、光夫は正真正銘の喧嘩友達なのである。さくらが大学で所属していた映画研究会ではいつもお互いの作品を本音でけなし合う仲であった。それには文字通り傷付けあうという意味が隠されている。要約していえば、相談などはもちかけたくない相手なのだ。
しかし、そうもいかないのが、世の常なのである。
勤務終了時刻の三十分前に、さくらはお互いが勤務している五階フロアの給水室に光夫を呼び出した。
「どうするかって……、出ないのはまずいだろう」
光夫は顔をしかめてあごをさすった。さくらは無精髭の生えたそのあごをまじまじと見つめる。
「歓迎会だぜ? いわば俺達の為に開く飲み会だよ……。いや、まずい、出ないのはまずい」
「でも、理由があれば不参加も可だって……」
「それは冠婚葬祭(かんこんそうさい)とかさ、全くさくらが言ってる事とはスケールが違うんだよ」
さくらは口を尖らせる。接吻の要求ではない。不満を表現法である。
「つまり、全員参加って事。絶対参加って事だよ。恒例行事だって、人事課の間村さんが念を押しただろう? あれは絶対に出席するようにっていう後押しだよ」
光夫はあごをさするのを止め、今度は人差し指でこめかみをぽりぽりとかいた。
「お前さ……、いい加減その人間嫌いをなおせよ。店舗に回されたらどうせそこで克服しなきゃならないんだぜ? 人間嫌いのままで接客するつもりかよ」
「別に……」
さくらは眉間を窮屈に寄せて、口を尖らす。
「嫌いじゃ……、ないけど」
「俺んとこに相談。あきらかすぎるんだよ、全く」
「嫌いじゃないよ……。ほんとに嫌いじゃないけど……」
さくらは、一瞬だけ口をへの字にふんじばった。
「出たくないんだもん……」
「出るしかないな。出た後で、なんか理由つけて帰るとかさ、これは仕方ない」
光夫はそう言ってから、俺も出るから――と言って、その給水室を後にした。
勤務時間が終了した頃には、さくらの元にも『午後六時にカラオケ・パキラの101号室に現地集合』という報告が回ってきた。
カラオケ店パキラとは、さくらの通う本社ビルからほんの少しだけ歩いた場所にある、豪勢な風貌をした三階建てのカラオケ店であった。そこに出入りする客は贅沢を好む人種達であろう。外観はインドの王宮のようである。その立派な構えから、そこがカラオケ店であるという発想は生まれてこない。電飾に飾られた〈カラオケ・PAKIRA〉という看板がなければ、全くをもって何の建物なのか想像もつかないほどである。
「おう、ちゃんと来たか」
さくらがカラオケ店の外観に見とれていると、うしろからのっそりと長身の長い顔が覗き込んでさくらに微笑んだ。
「光夫ってさあ……、なんか、新入社員に見えないよね」
さくらはくすくすと笑って、まじまじと光夫の顔を見上げる。身長差は二十センチ以上もあった。
「もう課長に見えちゃった?」
光夫は片眼を薄めて片頬を笑わせた。
「あ、褒めてない」
さくらはツンと冷静に囁くと、ゆっくりと前方のど派手な建造物に向かって歩き始めた。
「包容力のある顔と言え」
「なんかあれみたい……。とんねるずのおっきい方みたい」
「光栄だね」
3
店内は更に豪勢を極めた造りになっていた。さくらは初の来店である。これは全てのカラオケ店に、という意味でも適当される。
「あのー……、Rスカイダール株式会社の社員なんですけど」
そうさくらがフロントの女性店員へ告げたところで、うしろの入店口からやけに明るい声がさくらを呼んだ。
「さくちゃん先行っちゃうんだもーん」
さくらが振り返っていると、すでには光夫は101号室と表示板の出されたフロント脇の廊下に歩き始めていた。
「さくちゃんひどいよー……、隣デスクの仲じゃーん」
「あ、…ごめん、矢久保さん、もう行っちゃった後だと思って……」
それはさくらと同期の 矢久保美緒(やくぼみお) であった。
「うっそうそー……、だって私より先にオフィス出てったもーん」
美緒は持ち前の明るさを表情に出す。そしてさくらの肩にぽん、と手を載せた。
「心細いから一緒に入ろ?」
「あ…、うん」
矢久保美緒と話をする事は多かったが、それは業務を踏まえた雑談が主流である。目的を同じとしての会話はこれが初めてであった。それにしては、妙にあっさりと打ち解ける事ができた、とさくらは内心で呆然としていた。
ホワイトのタイルで敷き詰められた店内の壁と床、その為か、さくらは軽い眩暈(めまい)を連想しながらそのフロアを歩く……。横で、矢久保美緒が何やらをしゃべっているが、今はそれどころではなかった。
天井は低いながらも、シャンデリアが取り付けられている。全てのフロアで喫煙を許しているのか、近感覚で灰皿が置かれている。それもホワイト一色で造られた円盤型の瀬戸物製であった。天井にはシャンデリアと交互となるように、やはりホワイトのファンが回っている。
そこはとても独創性の優れたカラオケであった。俗にいうカラオケとは、全てがそうなのか。と、さくらは妄想をし始めていた。
「ここだ……」
矢久保美緒の声が、さくらにその部屋の扉を知覚させた。
その扉のルームプレートには確かに〈101号室〉と記されてある。扉は店内に浮かび上がるような黒でルームプレート以外を統一していた。よって室内の状況は確認できない。
「入らないの?」
「え?」
さくらが扉と睨めっこをしていると、うしろから矢久保美緒がそう言った。
「もう結構時間ギリギリだから、早く入った方がよくない?」
美緒はさくらの顔を覗き込むようにしてそう言った。
「そうだね」
と言った後で、さくらはその扉を勢い弱く開く。
「失礼……、しま~す」
『遅いぞ、新人!』
さくらは、びくりと背筋を正した。
その声はよく通る声で、しかもマイクで拡大されていた。
それは間村、という人事部長の声であった。この歓迎会を仕切っている人物である。
「すいません」
「すみません……」
さくらも、軽く会釈しながら謝罪した。
『はい、よろしいでしょう。ではでは、あいている席に着席してください』
短い腕が伸ばされたその先には、半四角形を描いたソファ・スペースの席が待ち構えていた。そこには、何となくで知っているさくらの同期達がびっしりと着席している。その中に光夫もいた。光夫は出入り口から一番近い端の席に座っている。
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ