アルスカイダルの非常階段
『ええ、勝ち負けを競います。もちろん採点の高いカップルが次に進みます。採点の低い順から、皆さんには消えてもらいます』
何を歌えばいいのだろう、と、さくらの思考回路はショート寸前である。俗物との関わりはないに等しい。二等辺三角形の定理を思い出す事はできても、最近の中で最も記憶に新しい歌をハミングで思い出すのも難しい。
さくらは気が付いていないが、その口はぶつぶつとすでに何かの歌詞を思い出そうとしていた。
間村部長の説明では、会社が主催している歓迎会とは、最後に残った一組に会社から金一封などが授与されるという、そんな変わった催しの事であった。始めに開かれる第一回目の歓迎会にて人数を絞り、更に二回目の歓迎会では男女一組のカップルを作って勝負をするとの事であった。今回は新入社員の数が著しく少数になっているとの事で、本来二回目である歓迎会の方式からのスタートらしい。
決勝戦は次回、一週間後に開かれる歓迎会にて行われるらしい。その為に今回の歓迎会で、カップルを六組にまで絞るのだという。
『それでは、曲目が決まったカップルかが順番に一曲だけ予約していってください。歌う時は必ずそこのステージで歌う事。他人の歌唱中は盛り上げる事に努めてくださいね、その方が盛り上がります。これはあくまで催しですから、会社からのプレゼントを勝ち取るまでは…楽しんじゃいましょう。なはは』
すぐに最初のカップルが最近の流行りの唄を歌い始めた。間村部長はステージの横で楽しげに手拍子を打っている。
「デュエット曲で…何か知ってるのあるか、お前」
耳元で光夫が尋ねた。
さくらはそれを咄嗟に手で遮りながら、まだぶつぶつと何やらを呟いていた。
「待てって…、俺も歌うんだからさ、俺にも教えろよ」
光夫は困った顔をする。
さくらは、複雑な表情で光夫を見上げた。
ルーム内にはカラフルなミラー・ボールが綺麗な水玉模様を回転させている。
「乃木坂46の新しい曲なら…ちょっとこの前テレビで観て知ってるんだけど……」
さくらは更に、困ったような顔をしてしまった。
「メロディは出てきてくれるんだけど……、どうしても、歌詞が精確に出てこないの……」
光夫は愕然とした表情で、――歌詞はモニターに出るよ……。と言った。
「…出るの?」
さくらは皺のない顔できく。
「出る……」
光夫は溜息を強調させたように、呆れ顔で答えた。
「マイクとか…お前、大丈夫だろうな?」
「ん、あうん、それなら……」
さくらは、ステージ上のカップルの視線を向けて真剣に頷いた。
「大丈夫、ちゃんと使い方は見たから」
「ああ……、そうすか」
「うん」
次々にカップル達が入れ替わり合う中、ようやくと言うべきか、ついにと言うべきか、その瞬間がやって来た。
間村部長は、笑顔で採点機を見つめている。
「エ、エントリーナンバー8番……、え、遠藤さくら、乃木坂46を歌いま」
「そういうのいいから、黙って歌え」
5
一風変わった新入社員歓迎会に勝ち残った遠藤さくら&戸島光夫ペアは、次回開かれるという5月6日の第二回新入社員歓迎会に出場する事となっていた。
だから気が重い。翌日の勤務には全然、全くと言っていいほど身が入らなかった。尚、共に次回に勝ち進んだ矢久保美緒&三上武人(みかみたけと)ペアは、全くそんな緊張を感じている様子はなかった。この三上というイケメンな男とも、これを通じて光夫が仲良くなっていた。一方、さくらと、美緒もお互いを「さくら」「美緒」と呼び合える中にまで発展していた。
現在は2022年5月2日である。あの可笑しな歓迎会からすでに二日が経過していた。
さくらは四日後の歓迎会を意識したままで業務を続けている。キーボードを打ち込む指先にも軽い放浪感が窺えた。
「三上さんって眼の下にホクロがあるじゃーん?」
隣デスクで美緒が嬉しそうに囁く。美緒は最近ずっとこんな感じであった。
「あれって泣きボクロってやつでさ~、実際よく泣いたりするんだって…ははっ、可愛いと思わない?」
「そうだねー……」
「私がじかで見たってわけじゃないんだけどさぁー、なんかそうらしいよ? 泣き上戸(じょうご)なんだってっは!」
「へー…」
「そーいう態度って、いかんぞ、遠藤君」
美緒は、ディスプレイに急な真顔を作った。
「え? あっ…ごめん」
さくらは我に返って、隣の美緒を見た。最近のさくらもずっとこんな感じが続いている。
「ごめんね、よく聞こえなかったから……」
「そーんなわけってないよねえ~…。近いしさ」
美緒はディスプレイを見つめたままでキーボードで入力作業を繰り返す。
「まーいいや……、私の話はさ。じゃあさあ、さくらと戸島君はどーなってるわけ?」
「ええ?」
さくらは顔を引きつらせる。完全にキーボードの手が止まっていた。
「一応カップルだしさぁー……、何だかんだ言っても、そっちも仲良しじゃない?」
「ないない、それはなぁい……。完全にない」さくらは必死に手を横に振る。
「え~……、戸島君いい人じゃん」
「そーゆう関係じゃないから、私達」
さくらは焦って言った。
「私達とかいって……。なんかいいねそれ」
「美緒…、ちが、なんかね、なんか美緒違う、勘違いしてるー」
「してないよん」
美緒はすっきりとした顔で、さくらを見た。
「付き合っちゃえって言ってるだけ」
さくらの絶句はこうしてあの日から増えてきていた。
社内でさくらと光夫の事を良い関係だと囁く者は、今のところ、美緒と三上の二人しかいない。しかしオフィスでもその明るさから発言力のある二人であるからして、それはいつまで二人の間に留まっているのかはわからない。
光夫はさくらと同じ階に勤務してはいるが、そのオフィス・ルームが違っていた。だから余計にやたらなことを言われれば気になってしまう。さくらは次回の歓迎会とほぼ同量に光夫疑惑で悩んでいると言えた。
さくらは今日までに提出する事になって書類をコピー機にかける。
瞬間的なフラッシュ効果がコピー機の陰部で見て取れた時、また後ろから美緒の茶々が入った。オフィスが同じだと苦労も持続してしまう。
「それ持って戸島君のところに遊びに行っちゃえば?」
さくらは困った顔のつもりで振り返る。しかし、それははたから見れば、ただの赤面であった。
「行っちゃえ行っちゃえー。だってわかんなくない? 書類なんてどこにでも配布するもんなんだし」
「もう…、これは城野君に渡すやつだから」
さくらは照れ笑いを堪えるように、眼を細めて口をふんじばった。
「美緒、からかってるぅ?」
「べっつに……」
なぜか赤面したままでオフィス・ルームを出るはめになった。同期の城野に書類を渡す為である。
たまに光夫と一言二言を交わす給水室を通る時には、誰もいないにも関わらず、眼を細めて口をふんじばっていた。
全く、困った友人だ。と、さくらは城野の勤務しているオフィス・ルームにてようやく赤面を解いた。
「あれ……。城野君?」
城野の所在を尋ねると、すぐに課長席に書類を届けていた若い女性の先輩社員が、訝(いぶか)しげに首を傾げた。
「書類を頼まれたんですけど……」
「あれえ?」
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ