アルスカイダルの非常階段
と言って、その先輩社員はすぐに近くのデスクにて仕事をしていた男性社員に声をかけた。
「城野君ってさあ、確か…出張(しゅっちょう)って言ってなかった?」
「城野? ああ、そうだよ。どうした?」
男性社員が、さくらに感じの良い笑顔を向ける。
さくらは手に持っていた裸の印刷書類を、二人に見せながら言う。
「あの…でしたら、城野君のデスクはぁ……」
「ああ、そこ。うん、置いといていいよ」
「あ、はい。ありがとうございました」
さくらは早々にそのオフィス・ルームを出た。そのオフィス・ルームには、室内の中央に衝立(ついたて)が置かれている。その区切りから向こうが、光夫の所属しているデザイン部になっていた。
さくらはわけもわからずに速脚で廊下を歩く。口の口角が今にもふんじばりそうであった。
通りすがった先程とはまた別のオフィス・ルームで、ふいにさくらは呼び止められた。
ドアの前でさくらを呼び止めたのは、そのオフィスフロアの重役であった。それは風格でもう理解する事ができる。
「すまんが、ここの課長デスクと次長デスクに、大至急で日本茶をお願いできるかな」
「あ、はい。わかりました」
さくらは素早く丁寧に受け応えた。
そのまま、重役ふうの男はそのフロアを出て行った。さくらは廊下からすっと、横目でドアのガラスから向こう側を覗き込み、それからすぐに給水室へと急いだ。
給水室にて日本茶の茶葉の入った茶筒を探していると、横からすうっと長身の影が流し台を隠した。
「OLって大変だな?」
さくらは振り返らずに作業を続けた。
「紅茶? お茶?」
光夫がさくらの後ろからきいた。
「お茶……、日本茶……」
「これか」
光夫はすうっと上の棚から黒い茶筒を取り出した。それをつまらなそうな顔でさくらに手渡す。
「ああ、あったの? 誰かが置き換えたんだ……」
さくらは独り言を呟きながら、さっそくてきぱきとお茶の用意を始める。
「歓迎会、何歌うよ」
ぴくり、と耳が反応する。
「乃木坂を裏声で歌った俺の気にもなれよな…。エントリーナンバー八番」
さくらは、恥ずかしそうに光夫を睨む。
光夫は変な顔をして待っていた。
ふいにさくらに笑顔が戻る。
「だって他に……あ、じゃあ友情ピアスも大丈夫。あれならデュエットだし」
「だから俺の事も考えろって言ってんだよ、利己人間」
「利己主義じゃないもん。他に知らないんだから仕方ないでしょ~……」
「俺はシングルベッドを歌いたい。後でダウンロードしてやるから覚えろよ」
「えー…やだー…」
さくらは適当に答える。
「ズルいぞ、お前映研の時もそんなだったよな……」
「昔は昔、過去は過去。私、だって覚えられないもん。それに、男の人の歌なんて声出ないし」
さくらは、湯呑みに日本茶を注ぎながら言う。もうその口はふんじばっていなかった。
「またコーラスとかしてればいいじゃん。それで高得点だったんし」
「利己主義女……」
「利己主義じゃないよー」
湯呑みを二つ、トレーに載せて、さくらは課長デスクと次長デスクに湯呑みを配った。どうして課の違う自分が頼まれなくてはいけないのかと、光夫の囁いた「OLって大変だな」を思い出して少し腹が立った。
ご苦労様も、ありがとうの一言もないままに、さくらはそのオフィス・ルームを出ようとする。最後にここに配属されている同期は誰であったかを考えた。
しかし、廊下で給水室を出てきた光夫と遭遇した瞬間に、そのちんけな思考が吹っ飛んでしまった事は、言うまでもない。
6
2022年5月6日。この日ついに第二回目の歓迎会が開かれていた。場所は前回と同じく〈カラオケPAKIRA〉の101号室である。
今回徴収されたカップルは八組であった。前回の半数が脱落した事になる。
残されたカップルは「さくら&光夫ペア」「美緒&三上ペア」「茉央&池田ペア」「美空&井上ペア」「姫奈&小川ペア」「いろは&川崎ペア」「咲月&冨里ペア」「アルノ&後木ペア」「友美&中間ペア」である。
『はい、それでは今回も歓迎会内容を発表しちゃいたいと思います』
前回と同じく、間村部長がマイクを使った軽快なトークで進行する。
『今回残ったこの八組のカップルには~……はい。早食い対決をしてもらいます』
どよめきは起こらなかったが、八組すべてのカップルから意表をつかれたとの囁きがこぼれていた。
乃木坂46の友情ピアスを事前に練習してきていたさくらは、特別低い声で「はあ~?」と言ってやりたかったが、それを不機嫌な苦笑で堪えていた。
『ここパキラにあるデザート類をタッ~と並べてね、うん、カップルに食べてもらいます。これは一斉にスタートで勝負しましょう。制限時間は五分です。五分以内にどれだけカップルでデザートを平らげる事ができるか、という協力戦ですな』
光夫んはさくらの肩をちょんと突いて「大丈夫か?」ときいた。
さくらは笑顔で――デザートは好きだけどね、実は遅い――と苦笑した。
ソファ席では間村部長の説明を尻目に、すでに個別の作戦会議が始まっていた。
間もなくして、テーブル上に運ばれてきたデザートは、結構な量であった。プリン、チョコレート・クレープ、イチゴシャーベット、桜餅四つ、ブドウ。それらすべて一組のカップルに1セットとして用意された。
『では、はい。私のスタートという合図と共に、食事を開始してください』
さくらは幸せそうな顔で、テーブルを凝視していた。
「おい…、お前はプリンとクレープやっつけろよ。俺が他を食ってやるから、食い終わったらそっこうであまってるやつも食うんだぞ」
「プリンから食べるね。それから……」
さくらはスプーンを握りしめて光夫に頷いた。
「それから、クレープを食べるから」
「そっこうな、プリンは飲め」
「噛むけど…なるだけ急ぐ」
『それでは~……。はい、開始してください』
その後、間村部長が気が付いたような顔をして『あ、そうか、スタート』と言い直した時には、すでに壮絶な早食い合戦が幕をきっていた。
さくらはスプーンを口に入れる。下にじわっとプリンの甘みと冷たさが広がっていた。
「あっめ~っ! うっわ、なんだこれ‼」
光夫は必死の形相でイチゴシャーベットを平らげていく。
「あっま……っん、よし!」
光夫はすぐに桜餅に手をやる。そのまま草の付いた状態で丸ごと一つを口の中に放り込んだ。そしてそのまま隣のさくらに視線をやる。
「よい…しょっと」
さくらはブドウの皮をむいていた。
「っぼっふぉっ‼」
「ん?」
さくらはおちょも口にブドウを一粒入れながら、まじまじと光夫を見た。
「ひとっつだけね。プリンも食べるから」
光夫はもごもごと口を忙しく動かしたまま、過激な形相でさくらを睨んでいた。その隣では、プリンを制覇した美緒の笑い声がもれている。
光夫は何とかで桜餅を飲み込んだ。
「あのなあお前なあっ! おっそいにも、程ってあるだろっ!」
「遅いの…」
さくらはおちょも口に、スプーンの先に乗っかったプリンを入れた。
「うん、おいし」
「うんじゃないっ! 飲めよっ‼」
「飲めるわけないでしょう…もう」
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ