アルスカイダルの非常階段
さくらはテーブルに顔を出して、他のカップル達を指差した。
「ほら、みんなちゃんと噛んでる」
「むぅお~いいっ‼」
光夫は、チョコレートクレープとブドウを同時に掴み取った。
「あ……、クレープ…あむ。食べるの?」
そんな勢いで光夫は奮闘した。さくらは、プリンと、ブドウを一粒程食べていた。
『そろそろ五分ですね。はい、それでは、その辺で手を止めてくださいな』
結果は意外にも勝利であった。無論、光夫がクレープとイチゴシャーベットと特大桜餅四つとブドウを間食した事での勝利である。しかも、それは三位通過という、奇跡的な結果にもなっていた。
美緒&三上ペアも、美緒の果敢な頑張りによって楽々と二位通過を決めていた。一位で優先枠に生き残ったペアは、光夫と同じデザイン部に所属しているいろは&川崎ペアであった。
例のよって他の四組はここで脱落となった。
脱落したカップルはその場で帰宅を強要されるという冷淡な決まりであったが、それはさくらにしてみれば羨ましい以外の何物でもなかった。決勝戦にもつれ込んだとはいえ、それはつまり、この変わった歓迎会をもう一度迎えなくてはならないという事なのだ。
会社からの金一封か、それ相応の商品が授与されるとはいえ、やはり人間嫌いのさくらにとって、こんな風変わりな社交場はしんどかった。
『ついに残ってしまいましたね……素晴らしい。実に見事な幸運と言いましょうか、諸君らはいま優勝という栄冠を間近に控えています』
五組のカップルが帰宅した後は、残された三組のカップルだけで、その広い101号室を貸し切っていた。間村部長は淡々とした演技調子で説明を続けている。その説明を、残ったデザートを食しながら、勝ち進んだカップルは聞いていた。
間村部長の説明は、すでに演説に近い方向性をおびてきている。マイクを握るその手にも力が入れられていた。
『人生に運は付き物ですね、ですが、それを更に上回らなければならない、実力という物が社会では求められます。何があるかわからない、一寸先は闇、それが全ての人間に与えられた人生です。これは一社会にも当てはまりますね。前方から吹き込む突風を避けるだけでは、いつになっても先へは進めませんよ、それはいずれ克服しなければなりません。ではいつか? それを克服するのはいつなのか? それは自分が決定を下すものではありませんよ。それは社会が決定する事です。社会に吹く景気や事業成果といった突風は、時を選びません。それがいつ我が社に吹き込むか、わからないのです』
私語を慎んだ静かな時間が経過する。さくらは少し乾いてきた喉に不満を覚えながらで、間村部長の熱演に耳を傾けていた。
『会社に貢献する。そう心に決めて入社した時から、諸君らは私達と同化しています。言わば運命共同体。液体社会のように、共に連動して未来を見つめていかなければならないのです。社会に出た瞬間からもうすでに、いつ吹くかわからない突風はすでに吹き始めているのです。逃げる事はできません。それは会社が許さないのですから、突風には立ち向かうだけ、わかりますか?』
デザートを食していた手が止まり、新入社員達が間村長に深く頷きを見せる。
『自分で選び決定した職務、与えられた業務、我々はそれを信じて実践するのみですよ。R-スカイダールには非常階段はないんです。いつの時も、自分に与えられた業務を真っ向から受け入れ、それに誠意をもって真正面から受け止める事が社員一人一人の責務です。ですから、これももちろんの事ですが、……カラオケで歌えと言われれば歌うんです。社交辞令とは、思わないでくださいな、これは、もう恒例となっている行事なのです。会社の偉功を踏まえ、そうしているんです。――この催しが始まって以来、毎年うまいように会社の業績は向上しています。これを…、やんなきゃ…ダメなのです。なは、なっはははは』
明るく決着した間村部長の演説に皆は軽い笑みと拍手を表していたが、さくらは間村部長の最後の言葉に、異様な不気味さを感じていた。
前回のようにマイクを置いた後、間村部長は早々に引き上げて行った。それから間もなく、さくら達は店に残ってカラオケを楽しんでいたのであるが、ルームに時間が来ると、暗黙の了解で延長は断った。
〈カラオケPAKIRA〉を出たと同時に皆は解散となった。駅までの路のりだけ、さくらと美緒ペア、光夫と三上ペアというふうにお互いのパートナーを入れ替えて歩いた。
駅に到着すると、逆方向に帰路がある美緒と三上は、早々に反対方向のホームに向かって行った。さくらもしぶしぶと同じ帰路を持っている光夫と駅のホームに立つ。
向かいのホームで美緒と三上は小さく手を振り、そして電車に乗り込んで行った。
電車が発進して、間もなくそれは見えなくなる。
気持ちの良い風がホームに吹き込んでいた。
さくらは神を押さえる。その時、光夫の声が後ろから話しかけてきた。
「十日に最後の歓迎会だってさ」
「うん…」
「もう、これって歓迎会がどうのじゃないな」
「うん…」
「まったく…、いつまでペアを組まされてるんだか……」
「……」
さくらの口はふんじばったままで黙っていた。
7
2022年5月7日、この日さくらは美緒と会う約束になっていた。さくらの勤めるR-スカイダールには土日の出勤はない。完全週休二日になっていた。
さくらは約束の午後一時に、待ち合わせ場所であるモール街の大きな時計台の前に到着した。すでにそこでさくらの到着を待っていた美緒は、元気にさくらに手を振った。
二人はさっそくショッピングを開始した。そのモール街には、国内から国外までのブランド品が綺麗に揃えられていた。もちろんさくら達の会社製品も洋服ブランドを中心として多く扱われている。
さくらと美緒は三時間ばかりショッピングを楽しんでから、モール街内にある喫茶店で小休憩を取る事にした。
「よーくそんなに買い込んだねぇさく~…。貯金でもおろしてきたの?」
さくらの脚元には大きな紙袋が三つも置かれていた。
「うん。全額じゃないけど、今日でほとんど使ったかな」
さくらは幸せそうにストローを咥えて言う。
「うちの商品もけっこう高いんだね~」
「そーりゃそ~だよ~……。天下のアルダだもーん」
美緒はそう言ってから、少し意味ありげな表情をさくらに向けた。
「あ、……ねね、さくらさあ。今度、コンパ行かない?」
「コンパ?」
さくらはストローから口を放した。そのまま「どうしようかな…」と顔を悩ませる。
「あ~…、良かった。コンパも知らなかったらどーしようかと思った」
美緒は明るく笑う。
「知ってた知ってた。合コンでしょう? あの…歓迎会みたいなやつでしょう?」
さくらは笑顔で言う。
「知ってる。男女がペアになって、お酒を吞みに行くんだよね、確か」
美緒の笑みが凍結する。そのままでは頬の筋肉が凍り付きそうである。
「どうしたの?」
美緒は顔の氷を溶かした。
「なんでもない。っは」もう笑うしかない。「でね、」
「なにぃ?」
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ