アルスカイダルの非常階段
「そのコンパに、今度行かない? って話。歓迎感がきっかけでさあ、けっこう男の子達と仲良くなったんだよね。ほら、最初歓迎会途中まで仕切ってた嗣永(つぐなが)君とかさ、中間君とか、あの辺が友達連れて来てくれるっていうんだよね~」
美緒はそう言ってから、しばらくさくらの反応を楽しみながら待っていた。
「それはぁ………、あの…」
「楽しいから来ちゃえって事」美緒が明るく言った。「本人達の番号知ってるからさ、もし気が向いたら、電話しなよ。今教えとくから」
「え…、いや、え…私が電話するの?」
さくらはまた咥えようとしていたストローを素早く口から放した。
「む~りむりむり、むり、むりぃ……」
「だぁ~いじょうぶだって。ほい、ケータイ貸して」
美緒はそう言って、テーブルにあったさくらの携帯電話をかってに弄(いじく)り始めた。さくらは戸惑った顔のままで美緒にたじろいでいる。
美緒は己の携帯電話でその番号を参照し、さくらの携帯電話へとその番号を登録している。
「戸島君も来るみたいだからさ、絶対に来た方がいいよ。これ嗣永君の番号ね……。彼ってケータイ持ってないのかな…、これ自宅なんだよねぇ…」
さくらは背筋を伸ばす。
「ま~あ同じ会社で普通コンパなんて言わないんだけどね、けっきょくはそんな感じだからさ」
美緒はさくらに携帯電話を返した。
「嗣永君が幹事みたいだから、行く気になったら電話してってさ」
「あ……え、うん」
さくらは、とりあえずで頷いた。
「入社式の日にすぐ出た話なんだけど、この前最初の歓迎会の時に嗣永君がやるみたいな事言ってたからさ」
「うん…」
「さくらもおいで」
「う~……」
その後は、また同じモール街でショッピングの続きを再開した。午後の六時を迎えたところで、美緒は別の約束があるからと言って帰っていった。
さくらはなぜか帰宅せず、そのまま正午に訪れていた喫茶店で夕食を取っていた。
カレーライスを口に運ぶ速度は実に遅い。
さくらはそれを迷っていた。
コンパの、参加不参加、である。正直なところ、社交場はやはり苦手であるが、どうにも光夫の参加が気になって仕方がない。これはもしかして、恋心というやつなのではないか……。
さくらは、ゆっくりとカレーライスを噛みしめる。じんわりとした甘みあるライスとスパイスの効いた辛さあるルーの食感は、そんなさくらの複雑な心と類似しているようであった。
まさかとは思うが、やはりそうに違いない。自分はあの日、最初の歓迎会で光夫の事を……。
好きになってしまったのだ――。
さくらは、最後のひと口を惜しむように噛みしめ、大事に飲み込んだ。そして、ゆっくりとした動作で携帯電話を握った。
胸が急激に体温を上昇させる。
そこで、それが間違いない事を実感した。
赤面とはまた違う、奇妙な快感が、胸を支配していた。
「あ…、もしもし……」
「おう、どうした人嫌い」
「嫌いじゃないもん…。そうじゃなくて……。あの、あのね…」
「んー」
「今度の……、あの…嗣永君とかがやる…あれ、…あのぅ…」
「飲み会?」
「そう、そうそう、そう。コンパ…じゃなかった、飲み会」
「がどうしたの?」
「行くの?」
「行く…と、思う。なんで? お前も行くの?」
「うん…。だから…、連絡しといてもらえないかな」
「は?――お前、そんなの自分で連絡しろよ。大体、俺番電話らないし……。番号は?」
「番号は知ってるから…、あ、じゃあ教えるから」
「ざけんな。お前なあ、飲み会出るのに保護者に連絡させる奴いるかあ? 酒も呑めない癖に、誰か狙ってるんなら自分でちゃんと電話ぐらいしろ。切るからな」
「あ……」
今度は、急な苛立ちに、電話を操作する。
うまく伝わらない気持ちに、というか、どうすればいいのかがわからない己に無性に腹が立った。
「あ、もしもし、あの…、遠藤と申します」
電話に対応したのは、おそらく嗣永の母親だろうと、さくらは理解した。」
「あの…、桃流(とうる)さんは、いらっしゃいますか?」
さくらは、それからすぐに「あの、同じ会社に勤めている者です」と言い加えた。
「桃流なら、もう一週間前から出張に出てますけど」
さくらは耳を疑った。
「え?――あの…、一週間前、から…ですか?」
「ええ」淡白な返答が返ってくる。
「ああ、わかりました。それでは、また機会を窺ってお電話しますので」
それ以上、何を放しても仕方がないので、さくらは電話を切った。
続けて、今度は美緒が登録していった、中間友哉(なかまともや)の自宅に電話した。
しかし、どうした事か、今度もまた、電話に出たのは母親だけであった。
さくらは中間の家にも「友哉は出張です」と、そう告げられたのであった。
携帯電話を閉じたさくらのその顔は、疑問に満ちていた。それはその筈(はず)、少し可笑しい話であった。中間は昨日〈カラオケPAKIRA〉の歓迎会で優勝争いから脱落した社員である。つまり、昨日までは本社に顔を出していた事になる。つい昨日行われた歓迎会の後、荷物を纏めて出張に出掛けたのだろうか……。
さくらは、中間の母親に告げられた一言にも、不可解な疑問を感じていた。
緊急な出張だって言いましてね、丁寧に会社の方からこちらに連絡をくださいましたのよ。
本人からは、何かご連絡はありませんでしたか?
ええ、なんでも緊急らしくって、それで代わりに連絡をくださったみたいなの。
出張先はどこでしょうか?
ああ、あなたも友哉から聞いてなかったの? 出張先は大阪らしいんだけど。ねえ、こんなにも緊急なんて、大変な仕事なのねえ。
まだ友哉から何の連絡も入ってないのよ…。そのうちくるのかしら? 全く、面倒臭がりなんだから、ねえ、ほほほほほ。心配しちゃうじゃないのねえ。
8
帰宅後は美緒と電話で話をした。さくらが不可解に感じた事情を話すと、美緒は軽く溜息を吐いて、飲み会の延期を嘆いた。美緒の反応はそれだけである。
しかし、むやむやとした胸に残ったシコリのような物が、さくらにはあった。
昨日歓迎会に出席していた者が、今日になってすでに出張に出掛けている。緊急と伝えられている事からしても、それは昨日になってから中間本人に伝えらえたのだろう。嗣永の母親も同じような事を言っていた。嗣永に至っては、自分で同期の仲間達に飲み会を仄めかしておきながら、出張に出掛けてしまっている。
どうもふに落ちなかった。胸の辺りがむやむやとしている。それは決してカレーライスの食べ過ぎというわけではない。光夫に抱き始めた恋心なる物とも、どうやら感じが違っている。
例えるならば、それは妙な違和感であった。
緊急の出張などが有り得るのだろうか。それは、あるのかもしれない。しかし、それにしても、少しふに落ちない点がある。
それは『出張』という響きであった。最近、さくらはどこかで出張という言葉を耳にしている。それはおそらく会社でであろう。当たり前であるが、そこにしか有り得ない言葉である。
ならば、いつ、どこで聞いたのだろうか……。
作品名:アルスカイダルの非常階段 作家名:タンポポ