星溶け菫のカクテル
「で、この店で雇って欲しいって言うからには何か楽器が演奏できるんだよな、新入り?」
それとも歌ってくれる? と無邪気な笑みを浮かべるレオの瞳は真剣そのもので。
「え、と……Pianoをお借りしても?」
凛月に尋ねれば、どうぞ〜と緩やかに手を振られる。ごちそうさまでしたと手を合わせてから席を立ち、ステージに上がる。たった四対の瞳に緊張してしまうのは、昨夜彼らの演奏を聞いてしまったからだろうか。
鍵盤の蓋を開け、そっと指を乗せる。吸い付くようなその感覚は久しぶりで、司は深呼吸をした。息を詰めて、最初の一音を鳴らす。
「……『キャラバンの到着』、ねぇ」
泉の小さな呟きは可か不可なのか分からない。緊張に指が縺れそうになるのを必死に動かす。一曲弾き終える頃にはぐっしょりと手汗をかいていた。
「あ、の……」
静まり返ったホールと煩いほど高鳴っている心臓。それらを掻き消す様に泉が声を上げる。
「履歴書と、身分証」
早く、と手を差し出す彼に返事をしてロッカールームへと走る。昨夜書いた履歴書はクリアファイルに入れておいた。身分を証明するものとしてパスポートを持ってきていてよかったと少し安堵した。
「二十歳ね……」
一瞥されたそれらは机の上で回される。いいんじゃない、と皆が口を揃える中、最後まで口を閉ざしていた泉に視線が向けられる。
「役に立たないやつ、努力しないやつはすぐに追い出すからねぇ」
この話はおしまい、と彼は席を立つ。
「そ、それって……」
「今日からよろしくな、新入り!」
よろしくお願いします、と勢いよく頭を下げた。
これが今からおよそ、四か月前のこと。
第二楽章 楽しい夜
あの日から私はこの店に住み込みで働いている。
店ではホールで給仕をし、夜のステージではピアノを弾いた。凛月先輩がピアノなのではと聞けば、あの日はたまたまそうだったのだと言われた。凛月だけではなく、他の先輩もいくつかの楽器を演奏できるのだとか。それでいてあのクオリティとは恐れ入る。
寮はこの店が入っている少しレトロな建物の一部。ワンフロアにそれぞれの部屋と、ランドリールームがある。六畳一間にキッチンとユニットバス。一人で暮らすには十分だった。
時に優しく、時に厳しく。世話好きな先輩方のおかげで、私はそれなりに働けるようになった……と、思いたい。まだまだ迷惑をかけることは多いけれど。
店内を満たす軽快な音楽。立て続けのソロ演奏にお客様の顔も、演奏しているメンバーの顔も綻んでいる。……そう、ただ一人を除いて。
メンバーは日によって演奏する楽器が変わるのだが、今日は嵐がドラム、泉がトロンボーン、凛月がテナーサックス、レオがトランペットを。そして司がピアノを担当している。
あと一小節、あと一音。最後の余韻が消え、拍手に包まれる。
「『A列車で行こう』をお届けしました。さて、続いての曲ですが……」
歌うようにゆったりと喋る凛月の声に誰もがうっとりと耳を傾けている。その間に司は次の楽譜を用意した。いくら譜面を覚えていても、置いておかないと不安になる。
やっと今日の演奏が終わった。一回三曲、全六曲の演奏を終えた司は安堵に胸を下す。ミスはなかった、はずだ。そんなことを考えながらお辞儀をする。
「かーさーくん、今日終わったら居残りね」
ステージを降りたところで囁くような声と共に肩をぽん、と叩かれる。ひっ、と叩かれた肩が飛び跳ねるのを自覚しつつ声の主を見やれば、爽やかな笑みを浮かべる泉が居た。きっとお客様には『優しい先輩が後輩を労わっている』ように見えるのだろう。
「せ、瀬名先輩……」
「勿論この後の仕事に響かせたりしたら居残りの時間も伸びるからねぇ」
そう告げた泉は颯爽とキッチンという名の彼の城に戻っていく。
「どんまい、ス〜ちゃん」
肩を落とす私の肩を叩きながら先輩方が越していく。
「今日も綺麗な演奏だったわよ、司ちゃん」
「綺麗な『だけ』だけどな!」
わはは、と笑ったレオにきっと悪意はない。……ない、はず。
事あるごとに言われてきた言葉。楽譜通り、お手本みたいな演奏。それの何が悪いのだと思いながらホールに戻る。お盆を手に席を回れば「お疲れさま」と微笑んでくれるお客様。お皿やグラスを下げながら、このまま時間が止まればいいのにと思った。実際に止まったのは指先だったのだけれど。
ぱりん、とガラスの割れる音が響く。
「し、失礼いたしました」
これがお客様の前でなくてよかったと流しの近くの棚の前で屈めば、小さな怒声が降ってくる。
「かさくん、直接触らないの!」
「せっ、」
瀬名先輩、と続けようとした言葉は口の中で溶けた。彼の手が私の指に触れ、じっと指先を見つめる。
「怪我、はしてないみたいだけど……」
「はい、大丈夫です。すぐに片付、痛っ、いたいです、瀬名先輩!」
ぱっと離れていった指が次に摘んだのは司の頬。彼が私を叱るときの定位置だ。
「言ったよねぇ、俺。そんなにお仕置きされたいわけぇ?」
その言葉に顔を真っ赤にしながら首を横に振る。声が出ない。望んでいたわけではない。怒られたくない。けれど、少しでも長く一緒に居たいだなんて思ってしまったのは、本当のこと。
「ここは俺が片付けるから。そろそろ閉店でしょ」
ほら戻りな、と背を押される。その触れられた部分が熱くて、身体の奥まで焦がすようで。もう一度、時間が止まりますようにと願った。
お会計をして、テーブルの上を片付けて、最後のお客様を見送る。表の札を『closed』に変えれば店内の雰囲気はくるりと変わる。
「リッツ〜寝ないで〜」
「今日はランチも入ってたからもうむりで〜す」
ソファ席で横たわる凛月とレオは楽しそうで、それに困った顔をする嵐も何だかんだ楽しそうだ。
「司ちゃん、こっちはもう大丈夫だから、洗い物を手伝ってもらっていい?」
そう言ってウインクをする嵐はどこまで知っているのだろうか。たじろぐ司の背を押す手は暖かい。
「はい、かしこまりました」
司は元気よく返事をすると、キッチンへと駆けた。
「で、ホールでも持て余されてこっちに来たの?」
「違います、あちらは殆ど片付いたのでお手伝いに来たんです」
泉が予洗いして食洗機に入れたものを司が食器棚へと片付けていく。
「今度は割らないでよねぇ」
「うっ、その節は申し訳ありませんでした……」
ううう、と小さく唸れば、泉はわざわざ泡を洗い流して、タオルで拭いた掌を司の頭に乗せる。
「反省してるならいいよぉ……ま、反省会がなくなるわけじゃないけどねぇ?」
くしゃ、と髪を混ぜられて、俯いた顔が上げられない。顔が熱い。きっと耳まで真っ赤になっているに違いない。
「セッちゃんがス〜ちゃん虐めてる〜」
これで全部だよ、とお皿を下げてきた凛月はにまにまと笑っている。
「はぁ? どこが虐めてるっていうわけぇ」
ねぇ、かさくん。なんて顔を覗きこんでくる泉にぶんぶんと首を縦に振って答える。
「ふ〜ん? まぁ、ほどほどにね、セッちゃん」
くすりと笑った凛月がホールに戻っていく。首を傾げる泉に顔を見られぬよう、司はそそくさと作業へ戻った。
「泉ちゃん、こっち終わったわよ」