星溶け菫のカクテル
子供の頃を思い出した。そうだ、これが楽しかったのだ。触れると綺麗な音が鳴る。お母様が驚いたような顔で私を見た。司、楽しい? それに私は笑顔で答えたのだ。たのしいです! と。
「瀬名先輩、歌って下さい」
一オクターブ分鍵盤に指を滑らせれば、瀬名先輩が隣に座る。司とは反対を向いて座る彼が背を仰け反らせると、綺麗な笑みのまま司の顔を覗きこむ。
「俺の歌は高いよ」
「一曲くらいいいではないですか」
あの夜は六曲も歌って下さったのでしょう、と笑えば、三曲だけで帰ったくせにと頬を摘まれる。
「歌って下さらないのですか」
「あの日は、たまたまじゃんけんで負けただけ」
確かにあの日以来瀬名先輩が歌うのは見ていない。そんな稀な日に偶然訪れた私は、これが奇跡や運命、あるいは必然だったのではないかと思えてしまうのだ。
「では、今日は?」
「仕方ないなぁ……かさくんのために」
ふっと笑う彼は、何だかんだと私に優しい。勘違いしてしまいそうになるほどに。
「では、この曲を」
ピアノの独奏用の楽譜は頭の中にある。イントロを奏でれば、視界の端に映る彼の顔は納得したような顔をしていた。
『Take Five』、初めて彼を見た時の曲だ。立ち止まって、私と少し休みませんか? 五分だけ。少し話しませんか、なんて。誘われるように歌われて、私はまんまとこの店を再び訪れた。選曲に意味などなかったのかもしれないけれど、それでもお気に入りの曲になるには十分だった。
低音を刻みながら、滑るように流れていくメロディを追う。ふと気になって彼を見やれば、視線が交わった。どきりと跳ねた心臓と指。誤魔化すようにアレンジを入れれば、笑うのを堪えられないと言わんばかりに彼の声が震えた。
拳一つも開いてない、服が擦れるような距離。息遣いが聞こえるその距離で、彼の声が私の鼓膜を揺らす。時折彼を見やれば気持ちよさそうに、楽しそうに歌っている。それを助長するようにアレンジを入れれば、泉もアドリブで応えてくれる。
楽しい。この曲が終わってしまうのが勿体ないと思ってしまうほどに。いつもであれば早く最後の一音が来ますようにと願っているのに、今日は来ないでほしいと祈っている。一曲では、とてもではないが足りない。
そう思っていても終わりは来る。
潔く終わる曲と、少しの切なさ。けれどもそれを超える高揚感。演奏していて楽しいと感じたのは十数年ぶりではないだろうか。鍵盤から指を離すのが惜しいと思えたのは、それこそ初めてかもしれない。
「どうだった?」
「たっ、楽しかった、です」
至近距離で尋ねられて、思わず顔を赤くする。優しく微笑んだ泉は司の頭に手を乗せると、まるで小さい子を褒める様に撫でた。
「そう……よかった。俺も楽しかったよ」
これなら明日からの演奏も期待していいよね、と問われ、小さく頷いた。
頭を撫でられるのは本日二度目で、触れられた回数は片手では足りない。初めの頃はあんなにも冷たかったというのに。冷たくされても嫌味を言われても負けじと噛みついていれば、いつのまにか踏み込んでいた。
彼は基本的にパーソナルスペースが広く、他人に対する警戒心が強い。
キッチンに居るのは料理が上手いこともあるのだろうけれど、ホールに出るのが嫌なのもあるだろう。お客様の前に出るのは演奏の時だけ。その前後も極力ホールに留まらないようにしているようだった。声を掛けられても一言二言交わして去っていく。そんなミステリアスな彼に惹かれるお客様も多い。
けれど一転して、気を許した人間に対しては距離感が近い。キツめの言葉も、彼が心を許しているからこそだったり、彼なりの愛情表現だったりする。
「瀬名先輩、私は子供ではありません」
乗せられたままの手に頬を膨らませてみれば、ごめんごめん、と退けられる。触れられているのは嬉しかったけれど、甘えてしまいそうで、期待してしまいそうで。
「まぁ、可愛い後輩ではあるけどねぇ?」
そう言われてつきんと胸が痛む。そう、彼はあくまで後輩として可愛がってくれているのだ。堅物な演奏しかできない私の為に態々時間を割いたのも、泣きじゃくる私を抱きしめたのも、普段は歌わない歌を歌ってくれたのも、こんなに近い距離にいることも。全て私がこの店で働く後輩だからで。それ以上でも、以下でもない。
私がもっと魅力的な演奏が出来れば、ファンを増やすことが出来れば、この店はもっと人気になるから。
「ふふ、『可愛い』と思って頂けていたのですね」
「まあ、最初に比べればね。うちに来たばかりのかさくんって本当に可愛げがなかったよねぇ」
「瀬名先輩には言われたくありません」
なんだって、と腕が首に回される。
「生意気なかさくんにはお仕置きが必要だよねえ」
「やっ、先輩、Give upです!」
戯れに緩く締められる首。彼の腕をぺしぺしと叩いて抵抗すれば、ぱっと解放された。笑いながら目を開けば、先程よりも近い距離。
「なん、ですか……」
「いや、綺麗な菫色の瞳だなぁって。睫毛も長いし」
まじまじと顔を見つめられて、司は思わず視線を逸らす。
「かさくん、顔も整ってるし、黙ってたらかっこいいよねぇ。さっきみたいな演奏したら、人気出ちゃうね」
まるで残念だ、と言わんばかりの声に司は首を傾げる。
「あまり興味はないですが、店が繁盛していいのでは? それに、どうやったって先輩方には敵いません」
「そりゃそうだけど」
当然でしょ、と言わんばかりの表情に感心してしまう。私には出来ないことだった。
「ところで、瀬名先輩は、恋人はいらっしゃらないのですか」
「何、急に」
訝しげな視線がこちらへ向けられる。
「いえ、瀬名先輩はお客様からの人気もすごいですし、そういった方が居てもおかしくないのかな、と思いまして」
本当に、そう思ったのだ。口に出したのが今なだけで、割と前から思っていたけれど。
泉目当てで通う綺麗なお姉さま。出入りの業者。そしてメンバー。誰かとそういう関係であってもおかしくはない。だからこれ以上気持ちが膨れ上がる前に、気持ちを伝えてしまう前に、知りたかった。いると言われたら諦められる。ではいないと言われたら……そんなことを、何度も考えていた。
「いないよ」
そう言われて嬉しい気持ちになれたのは、ほんの数秒。
「今は店のことで手いっぱいだし、いらないかな」
手のかかる後輩もいるしねぇ、と揶揄われるが言い返すことも出来ない。
「……そう、ですか」
そうですよね、と笑ってみたけれど、きちんと笑えていただろうか。
凛月に聞いた話だけれど、この店はレオと泉が二人で作った店らしい。いや、正しく訂正するなら、泉がレオの為に、だ。
そのくらい二人が特別な関係であることは、聞く前からなんとなくわかっていた。先程恋人はいないと言っていたけれど、それ以上に特別な何かを感じていた。
「そろそろ遅いし、部屋に戻ろうか?」
食べかけのまかないを手に店を後にし、階段を上がる。
「それでは、おやすみなさい」
「ん、おやすみ」
ありがとうございましたと頭を下げれば、ひらりと手を振られた。