星溶け菫のカクテル
司は自室に入るなり布団に潜りこんだ。色々な感情が渦巻いて、ご飯など喉を通りそうにない。シャワーも明日でいい。今夜は先程の演奏だけ思い出していたいと、固く目を閉じた。
この夜の夢は、ステージに立っていた。
暗い会場はまるで夜の海のよう。ステージと客席の境は曖昧で、気を抜けば落ちてしまいそうで。足元で鈍く光を放っているはずのバミリを目指して闇の中を歩く。
観客や審査員の小さな囁きは潮騒。段々と渦巻いていくようなそれに飲み込まれてしまわないようにと思うけれど、不安な心がそれに引っ張られる。
月明かりが私を照らせば、波の音は消えていく。耳の痛いほどの静寂。
この瞬間、私はいつも不安に駆られるのだ。たちまち海に引きずり込まれてしまうのではないかと。月に照らされる側ではなく、細波の先で消える泡の一つではないのかと。そんなことを考えていると、夜闇の中に立っていたはずの私の身体が暗い海の底に沈もうとしていた。
いやだ、いやだ。私が水面でもがいていると、少し骨ばった手が差し伸べられた。
「おいで」そう聞こえた、気がした。
第三楽章 本当のこと
寝覚めの心地は何とも言えなかったけれど、シャワーを浴びれば多少はすっきりした。
テーブルに置いたままのまかないを温め直して朝食にする。どんなに気持ちが落ち込んでいてもお腹は空くのだから不思議だ。優しい味にぽろぽろと涙が流れる。箸を進めながらも、思い返すのは昨夜の会話。
恋人なんていらない、と言ったからには好きな人なんていないのだろう。聞く前の私だったらそれらを知れただけでも一歩前に進めたと思ったかもしれない。あるいはここで思いを断ち切る決心をしたのかもしれない。けれど今の私は想定した以上に傷ついており、それでもまだこの想いを手離せずにいた。
「ごちそうさまでした」
司は手を合わせて呟くと、小さな冷蔵庫から保冷剤を取り出し、ハンカチで包んで目の下に当てた。練習が嫌だ、コンクールが嫌だ、と泣く私に、母がよくこうしてくれていたっけ。目を閉じれば、顔を背けてきたものが瞼の裏に浮かび上がる。口喧しい幼馴染の声が幻聴として聞こえ始めたあたりで目を開けて、深呼吸する。
冷静になれ。自分に言い聞かせる。
彼に好きになってもらえなくても、恋人になれなくても、この店にいて欲しいと思ってもらえたら。あのステージが私の居場所になればいい。彼の近くで演奏して、昨夜のように笑いあえたらそれでいい。……両想いになりたいなんて、贅沢な望みだったのだ。
ゆっくりと息を吐き出して、ハードケースを手に取った。出勤まであと一時間。私は店に向かい制服に着替えると、ステージでハードケースを開けた。手入れは欠かさず行っていたけれど、演奏するのはこの店を初めて訪れた時以来だ。
構えたヴァイオリンに弓を当て、ゆっくりと引く。流石に四か月のブランクは大きい。けれど自分でも分かるほど、音が心地よい。
小さく口ずさみながら奏でるのは、『Take Five』。昨夜の思い出を噛みしめるように、丁寧に、楽しく。楽しくしようなんて考えずとも、そうなっていたのだけれど。
そのまま頭に浮かんだ曲を次々に奏でていく。楽しい。心が躍り、それが指先から音へと伝わっていく。次は何を弾こう。あれだけ嫌だった課題の数々が、今は美味しいものがずらりと並ぶメニュー表のように思えてくる。頭の中のリストを手繰って次の曲を選ぶ。
「ふーん、ヴィヴァルディの『春』ねぇ」
「せ、瀬名せんぱ、っ……」
そのまま続けて、とステージの前の席に腰掛けた泉が司を見上げる。
「何時からいらっしゃっていたのですか」
躓いたところから演奏を続けながら口を開く。譜面は身体が憶えている。惰性で弾くことは望ましくないけれど、発表会というわけではない。
「ついさっき」
「出勤時間までまだ時間はありますよね」
「いつもこのくらいには来てるからねえ」
そう言われたらそうだ。いつも早めに来ている司よりも泉は早い。
「かさくん、ヴァイオリンも出来たんだね」
しかも上手いし、と呟いた瀬名先輩はどこかつまらなさそうな表情をしている。
「本当はこちらが本命です」
随分と久しぶりに弾きますが、と付け加えれば、彼はふうんと相槌を打って目を閉じた。彼のこういう優しさが好きだと思った。今はまだ話せないけれど、いつか話したくなったらその時は聞いてくれるだろうか。
伝えられないことが全て伝わりますようにと音に乗せる。
演奏を終えれば、彼は拍手を送ってくれた。
「今日のまかない、何がいい?」
キッチンに向かう彼が肩越しに尋ねる。
「Ha……ハンバーグが、いいです」
「わかった」
ふっと笑った彼はエプロンを手にキッチンへと消えていった。私はヴァイオリンをひと撫ですると、ハードケースに仕舞ってロッカールームへと向かう。
「先輩方、ここで何をしているのですか」
ロッカールームの隅で膝を突き合わせている三人を見下ろす。
「いやぁ、お邪魔しちゃ悪いかなって」
「昨日の夜も楽しめたかしら?」
ねぇ、と目を細められて司の顔が赤くなる。
「こっ、こんなところで油を売っているのでしたら早く働いてください!」
もう、と頬を膨らませれば散り散りに逃げていく。
「あっ、スオ〜、ひとつだけ! さっきの音、すごく楽しかった!」
にっと笑ったレオは司の言葉を待たずに箒を手に外へと駆け出していく。
「……」
熱い顔を手で仰ぎ、ロッカールームの扉を後ろ手に閉じる。
「なぁに、大きい声出して」
ホールへ戻ろうとするとキッチンからひょいと半身を覗かせた泉が首を傾げている。
「いいえ、なんでも」
「……? へんなかさくん」
この日、泉にバレない程度に揶揄われ続けたのは言うまでもない。
ヴァイオリンを披露した日の営業後。ミーティングをしたいと言われたので頷けば、何時しかのように客席がくっつけられてカトラリーが並んでいる。まかないはハンバーグ。リクエストしたもののお昼は違うメニューだったので内心首を傾げていたが、夜のことだったらしい。彼はいつも、ほんの少し言葉が足りない。まぁ、0か100かの私が言えたことではないけれど。
「で、ス〜ちゃんはここでは弾かないの?」
ヴァイオリン、と付け加えられた言葉に泉がぴくりと反応する。
「なんでくまくんが知ってるの」
「いや、お客さんとしてきた日にケース背負ってたし……」
「左首に痣もあるものねェ」
ねー、と嵐とレオが顔を合わせているのに対し、泉が面白くなさそうに眉を寄せる。
「気付かれていたのですね、お気を遣わせてすみません」
頭を下げれば、四人は優しい笑みを浮かべた。
「いいのよ、誰だって話したくないことはあるわ」
「で、今日弾く気になった理由は妄想するとして、ステージで弾く気はある?」
嫌だったらそう言って! とカラッとした笑顔で笑うレオに救われた気になる。
「……弾いてもよければ、ぜひ、お願いします」
もう一度頭を下げれば、肩や背を優しく叩かれる。
「ス〜ちゃんのヴァイオリンと演奏するの、楽しみだなぁ」
「曲のレパートリーも増えるわね!」
表情を見ればそれが心からの言葉だと分かって、鼻の奥がツンとする。