星溶け菫のカクテル
「……桃李くんに、私の気持ちが分からないのと一緒です」
逃げ出してしまいたい気持ちを堪え、ゆっくりと息を吐き出す。
「とりあえず、閉店ですので……」
出て行ってください、と続けようとすれば、キッチンから出てきた泉の声に遮られた。
「ちょっとかさくん、いつまで待たせるの!? お皿は早めに下げてって……って、桃くん?」
「は? ワカ……じゃなくて瀬名先輩?」
なんでここに、と声が重なる。
「瀬名先輩と桃李くんは知り合いなのですか?」
話がどんどんあらぬ方へ転がっていく気配がして、眩暈がする。
「久しぶりだね、司くん」
「天祥院のお兄さま……」
頭痛がする。誰か助けて欲しい。そう思ったところで救いの声が聞こえた。
「お店閉めたわよ、ってあら? 凛月ちゃんのお客様?」
店の中の異様な空気を察した嵐は、お茶を用意するわねと告げた後レオを呼びに行ってしまった。
「要約すると、司ちゃんと桃ちゃんが幼馴染で、司ちゃんは天祥院さんとも面識があって、天祥院さんは泉ちゃんとレオくんの同級生で、凛月ちゃんのお友達ってことかしら?」
「世間って狭いねぇ」
ふーん、と不思議そうな顔をしている嵐に、凛月が適当な言葉を返す。
「ついでに言うと桃くんと俺がテニスクラブの先輩と後輩」
こんなことあるんだね、と顔を合わせて笑っている英智と凛月はどこまで何を知っているのだろうか。背筋を走った悪寒は気のせいということにしたい。
「で、大学を休学した君がここを見つけたのは偶然だったのかな、司くん」
何でもないことの様に尋ねた英智に驚いて目をやるが、ティーカップに遮られてしまう。その手前に並んだ四対の瞳は其々驚きや興味の色を持っている。
いつかはきっと離さなければならないことで、もしかすると今日がその日なのかもしれない。司はゆっくりと深呼吸をすると、まずは端的に質問に答えた。
「……偶然です。大学を休学し、家出をして、音楽はやめるつもりでしたから」
聞いてくれますか、と震える声で紡げば、全員が頷いた。司は息を吐き出すと、ゆっくりと語り始めた。
私は朱桜という名家の嫡子、跡取り息子だった。武士の家系だったはずなのに、幼い私が興味を持ったのは楽器。父親は剣道や柔道、弓道をして欲しかったらしいが、母親が反対した。興味のあることをさせてあげたい、と。そこで折衷案が出され、曜日毎に違う習い事に通わせ、本人の興味や才能のあることをさせる、ということになった。月水金は家庭教師が来て勉強。火木土はピアノ、弓道、乗馬。幼いながらも負けん気の強い司はどれも一生懸命にこなした。
ある日ピアノ教室に行った司は、別の教室で大人が演奏しているヴァイオリンを見てあれがやりたいと駄々をこねた。中々我儘を言わない司が言うのだからと、両親は子供用のヴァイオリンを購入し、司に与えた。大人でもまともな音が出せるまで時間を要するそれを、司は数日でやってのけた。この頃から努力の人だったのだが、大人たちは神童だと持て囃した。
やがて弓道や乗馬は土曜日の息抜きとなり、ヴァイオリンに費やす時間が増えていった。多角的に音楽を学ぶためにピアノも細々と続けていたけれど、本命はヴァイオリンだった。
コンクールで賞を獲る度に、大人たちは家を継がせるかヴァイオリニストにさせるかで揉めた。当の司はいかに難しい曲を完ぺきにこなすかということしか頭になく、来る日も来る日もヴァイオリンを弾いた。
勿論勉強も怠らなかったので、優秀な成績をキープし続けた。司にはこれが当たり前のことだと思っていた。
結局音大に進むことになった司は、大学で上には上がいることを知った。『井の中の蛙大海を知らず』というやつである。ついでにもう一つ言うとすれば、『十で神童十五で才子、二十過ぎれば只の人』である。努力は天才に打ち勝てないのだと悟った。
勿論負けん気の強い司だったから練習を重ねて、難易度の高い曲にも挑戦した。その頃に競い合っていたうちの一人が桃李だ。正確な音を重視する司に対し、表現力を得意とする桃李は水と油だった。
批評の度に【表現力が足りない】と書かれる司は内心焦っていた。すり減って、けれどどうしようもなくて、それでも一度入ってしまった世界から尻尾を巻いて逃げ出すなんてことはプライドが許さなくて。なんとか踏ん張っていた時に聞こえたのが、朱桜の大人たちの声だった。
「やっぱり大したことなかった」
「だから早く家を継がせるためにあの大学にしろと言ったのに」
「芸事をさせたのは間違いだった」
その瞬間、司の中で何かが崩れ落ちた。数日間何もせずただ部屋に閉じこもり、両親を心配させた。部屋を出る代わりにと言って半年間の休学届にサインを貰った司は、休学届を提出し、帰ってきた足でそのまま家を出て、数日間ホテルを転々とし、この店を見つけ転がり込んだ。
「……以上が、これまでの経緯です。長々とすみません」
司は頭を垂れたまま、上げられずにいた。我ながら滑稽な人生だと思う。
「またこうして人前で演奏するつもりはありませんでした。けれど、先輩方の演奏に惹かれて……」
ここでなら、変われるのではないかと思った。何にも縛られずに演奏すれば、誰かの心を動かせるのではないかと。
そんな期待を胸に抱いて、後ろめたい過去を背に隠した。
「嘘をついて、すみませんでした」
積み重ねられた小さな嘘。塗りつぶした過去。怒られたって仕方ない。悪いのは自分だ。
「司ちゃん、顔を上げて」
最初に口を開いた嵐の声は、困惑しているようだった。
「ス〜ちゃんが何か隠してるのを知りながら、聞かなかったのは俺たちだよ」
子供をあやすような優しい声で凛月が言う。
「誰だって逃げ出したくなることはあるよ。逃げるのだって一つの選択だ」
レオの声はいつも通り凛としていて、けれどどこか影があるように聞こえた。
最後に口を開いた泉は、大きな溜息を吐き出す。
「はぁ……でも、だからってここでずっと目を背けているわけにもいかないでしょ」
そう、休学のリミットは一か月と、少し。司は休学を延長するか、復学するか、退学するか、選ばなければなかった。そしてそのどれを選んでも両親のもとに顔を出さなければならない。
「かさくんは、どうしたいの」
淡々と告げた泉の顔を見れない。ずっと顔を上げられないまま、司は口を開いた。
「大学は、辞めるつもりです。戻ったところで大した成績は残せません。休学を延長したところでどうしようもないですし。両親も呆れて、諦めているでしょう」
だから、と言ったところで一度唾を飲み込む。
「このまま、ここに居させていただけませんか」
そう告げた司の胸倉をつかんで、頬を叩いたのは泉だった。
「この店を逃げ場にすんな」
ぱしん、と耳元で鳴った音と、ワンテンポ遅れた痛み。じわじわと燃える様に頬が熱い。
「泉ちゃん!」
「セッちゃん、」
立ち上がった嵐と凛月が泉を押さえる。恐る恐るそちらを見やれば、唯々冷たいアイスブルーがこちらを睨んでいる。
「ここでならいい演奏が出来る、ここでなら何か見つけられる。……そういう理由だったら、俺だって歓迎してたよ」