星溶け菫のカクテル
もういい、と泉はキッチンへ向かう。司の喉は凍りついたように声を発せない。凍てついた空気のなかで、今までずっと時が止まったようにぴくりとも動かなかった桃李が、漸く口を開いた。
「なんで大学辞めるとか言うの?」
わけわかんないよ、と今にも泣きだしそうな桃李につられ、目頭が熱くなる。
「今日の演奏、悔しいけどすごく良かった。あんなに楽しそうな司、初めて見たよ。あんなに楽しそうな音、初めて聞いた……」
その言葉に、表情に、褒められているのだと気付いた。あの、桃李に。
「……っ、だからこそ、戻ってきなよ! 今の司ならコンクールだって余裕でしょ!?」
ボクとだっていい勝負になるでしょ、なんて言葉と共に握り拳で胸を叩かれて、司の目からは涙が零れ落ちる。
「わかりません……」
頭を冷やしてきます、と誰に言うでもなく呟いた司は、制服姿のまま外へと駆けだした。
第四楽章 泣き虫と言葉足らず
何も持たずに店を飛び出した司が向かったのは、いつもの河原。何にも構わずに膝を抱えて座り込んだ司は、わんわん泣いた。泣いている理由は自分にも分からなかった。
隠していた事への罪悪感とか、吐き出せたことへの安堵とか、自分の思慮の浅さだとか。言ったことを、言われたことを、思い出しては涙が零れる。
「嫌われてしまったでしょうね」
こんな時にまでそんなことを考えてしまうのだから、嫌われて当然だと思う。
先程のことが脳裏に焼き付いて離れない。誰よりも傷ついているように見えた、泉の表情が。
「……やだなぁ」
嫌われたくなかったな。一緒に演奏したい曲は、まだまだ沢山あったのに。溢れる涙の止め方が分からなくて、滲んだ視界では星も捉えられない。
「……そう思うなら、ちゃんと弁解してよ」
聞こえるはずのない、声。ついに都合のいい幻聴まで聞こえるようになってしまったのかと大きな溜息を吐けば、頬に冷たいものが当てられた。
「ひっ!」
「かさくんの癖に、俺のこと無視するなんて生意気」
ありえないよねぇ、と眉を寄せたその人は、頬に押し当てていた缶ジュースを司の手に握らせると、隣に座った。
「瀬名先輩……」
なんでここが、とか、どうしてここに、とか。聞きたいことは沢山あるのに、本当に彼だと認識したとたんに更に涙が溢れて言葉に詰まる。
「ああもう、ほんと泣き虫なクソガキなんだから」
司の目元を優しく拭うハンカチは、泉の匂いがして落ち着く。
「でもまさか、かさくんがここに居るとは思わなかった」
俺も何かあるとここに来てたんだよねぇ。星を見上げながら呟いた泉の横顔を盗み見る。涙で滲んでいても、綺麗な人だとわかった。
「瀬名先輩も悩んだりするのですか?」
「当たり前でしょ。この歳で自分の店持ってたら、悩みの一つや二つはあるよ」
後輩が隠し事してたとか、突然バカなこと言いだすとか? 嫌味っぽく言う彼に言い返せるはずもなく口を噤んでいると、何かいいなよと肩を小突かれた。
「別にさぁ、大学も辞めたいならそうすればいいし、うちに残りたいんだったらそれでもいいよ。でも、それなら前向きな理由が欲しかった」
「そう、ですね……」
あの店で学びたいのだと、あのメンバーで演奏がしたいのだと、素直に伝えていれば。けれど咄嗟に口を突いて出た言葉だって私の本心の一部だ。行く当てがないから置かせて欲しい、と。あの場にいた誰もがそう受け取っただろう。なんて厚かましい。
「まぁでも、叩いたのはやり過ぎだった……その、ごめん」
「っ、いいえ、いいえ。私が悪かったのです。叩かれて当然です。私こそ失礼なことを言ってすみませんでした」
頭を下げればいつも通り乗せられる手のひらがくすぐったい。顔を上げれば、彼は優しく微笑んでくれた。
「……ほんとに辞めるの?」
そっと尋ねる声の主の微笑みは、悲しいそれに代わっていた。まるで司が大学を辞めることを残念に思っているような、そんな……
「どうして、」
「かさくん、最近すごくいい演奏するでしょ」
ピアノでもヴァイオリンでも、楽しそうに演奏をしているのだと彼は言ってくれた。
「もともとすごく上手だったけど、最近はそれだけじゃないっていうかさ。一緒に演奏してて、たまに聴き入っちゃうことがあるんだよねぇ」
「っ……それでしたら、私はあの店で」
そのまま残りたいのだと言おうとすれば、首を横に振られた。
「正直、勿体ないって思った。それだけの才能があるのに、きちんとした舞台で正当に評価して貰える機会があるのに、辞めるなんて勿体ない」
苦しそうな表情に、司はどう返していいか分からない。
「途中で辞めた俺が言える話じゃないんだけどねぇ」
「えっ……?」
泉は小さく息を吐き出すと、言葉を続けた。
「俺も音大に通ってたの。努力じゃ才能には勝てなくて……結局辞めちゃったけどね」
丁度その頃レオとジャズバーの構想をしていたらしい。辞めると同時に資金を集めて、なんとかオープンしたのがあの店なのだという。
「すごいですね……」
「今思うと意地だったのかもね」
せめて何かを成し遂げたかったのだというその横顔はとてもかっこいい。
「うちで成長したかさくんなら、大学でももう少し頑張れるんじゃない?」
「っ……ありがとうございます。でも私が成長できたのは、先輩方が居たからです。先輩方と一緒に演奏することが、楽しかったから……。今更一人きりのステージに、耐えられる気がしません」
お客様にも桃李にも、先輩方にも。褒めてもらえるようになった。曲の表現が今までとは段違いに上手くなったことも自覚している。今の自分の力を試してみたい気持ちもある。それでもあの暗闇を思い出せば、今でも足が竦んでしまいそうで。
「今のかさくんなら、一人でもいい演奏が出来るんじゃないの」
前に聞いたクラシックもすごく良かったよ、と骨ばった指の先が輪郭をなぞる。その甘い声に、優しい表情に、くすぐったい指に、司の頬は容易く染まってしまう。
「それは……私もあなたの力になりたくて、あの店で、お役に立ちたくて」
あなたを想って弾いたのだとは言えなかったけれど、伝わってしまっただろうか。ぱちりぱちりと瞬きをした泉は、ふっと笑みを深める。
「じゃあ、ステージの上に立つときは俺の為に弾いてよ。それなら一人でも怖くないでしょ」
そっと背中を押すような言葉に心臓の辺りがぽかぽかと温かくなるが、それと同時に寂しさを覚えてしまう。
「けれどまだ、先輩方と演奏していたいです。Knightsを、辞めたくありません……」
ふるふる、と首を横に振れば泉は首を傾げる。
「なんでどっちかひとつになるかなぁ」
むに、と抓まれた頬と、呆れたような声。
「大学に通いながら、うちでアルバイトすればいいじゃん」
思ってもみなかった提案に、司は唯々口を開けて母音を零した。
「全く思いつきませんでした、って顔だねぇ。どっちかしかできないなんて極論過ぎるでしょ。やっぱり不器用だよねぇ」
「……返す言葉もありません」
少しずつ明瞭になっていく視界に映る星々。夜の空気を胸いっぱいに吸い込めば、草花の匂いと泉の香りがした。
「……瀬名先輩」
「なぁに」
深呼吸をした司は、ゆっくりと泉を見つめ返す。