水泡にKiss
だからこそ分からなかった。別れ際に何故そんな苦しそうな表情をするのか。司が連れ出してくれない限り、自分はずっとこのバスルームにいて、司の方も殆ど城から出ることはないというのに。
「いってらっしゃい」
ゆるりと手を振れば、同じように振り返してくれる。切なく微笑むその理由を知りたくて、再び本を開いた。
*
「はぁ……」
本日何度目か分からない溜息を零しながら、書類に目を通す。傍に従者が居ればお小言を言われたのだろうけれど、幸か不幸か彼は席を外している。
溜息の理由は勿論、バスルームに隠している人魚のことだ。
保護した当初は、自分一人で手当てできるのか不安だった。続いて出てきた課題は、何を与えればいいのか、どうすれば信頼して貰えるのか、どうやって隠し通すか。心配することは沢山あったけれど、どこか胸が高鳴っている自分もいた。
人魚という、物語の中にしかいないと思っていた存在が目の前にあること。その存在を自分だけが知っており、自分の部屋に隠していること。新しい玩具を手にした子供のよう──と言うと聞こえが悪いだろうか。まるで初めて読んだ小説のように、どきどきしていたのだ。
知りたいと思った。それは彼が人魚という特異な存在だったから。……始めは確かに、そうだった。けれど人魚のことを知って、それと同時に彼自身のことを知って。次第に興味は、人魚から彼へと移っていった。海のように深くて、暗くて、美しいところを……もっと、もっと。
「かさくん」
そう呼ばれるたびに自分は頼られているのだと、特別なのだと思えた。そんな彼が自分に明かしてくれた、神秘的な力。秘密を共有することで、より胸が肩鳴るのを感じた。
彼に惹かれていく自分を抑えきれそうになくて、けれどもこれ以上踏み込めばきっと元には戻れない。情が湧けば別れが辛くなるのは目に見えているし、それ以上の感情が芽生えてしまえば──……そしてそれが彼に、伝わってしまえば。
うっかり口を滑らせて、帰したくないなんて言ってしまえば、きっと二度と口をきいてくれないだろう。それならいっそ、と自ら命を絶ってしまう気さえする。そんなことにならないように、胸の奥底へ沈めていよう。
「瀬名さん」
小さく呟いたその名前を、あと何回呼べるのだろう。あと何回、かさくんと呼んでくれるのだろう。分からないけれどせめて、穏やかな声で呼べたらいい。優しくて心地の良い声で、呼んで貰えたらいい。
*
「こんにちは、瀬名さん」
ノックの音につられて顔を上げれば、笑顔を携えた司が意気揚々と入ってくる。
「こんにちは、かさくん。なあに、それ」
司が手に持っているものを指差せば、待ってましたと言わんばかりにそれを差し出す。
「蓄音機です。この箱から音楽が流れるんですよ」
持っていて欲しい、と蓄音機を手渡した司は椅子の上に積まれた物を片付け、そこに座る。はい、と彼の手に戻せば、司は箱の横についているハンドルをくるくると回す。箱の上には百合の花のような黄金色の金属がついていて興味深い。なんてことを思いながらバスタブの縁に頬杖を突いてその様子を見守っていれば、司と目が合い微笑まれた。
「前に歌うのが好きだと仰っていたので、たまには本以外のものをと思いまして……隣の国で流行っている歌だそうです」
目を閉じた司に合せて、瞼を閉じる。麗らかな午後の陽射しの中、潮の香りが混じった風に蓄音機から流れる音楽が乗る。その、瞬間。
ぽろりぽろりと流れる涙と、思わず口を突いて出た歌。
「……せな、さん……?」
呼ばれた声に瞼を開けば、困惑した表情の司がいた。
「な、んでもないから……」
瞼を手の甲で拭い、背を向ける。流れ続ける音楽に、ずっと止まないで、すぐ止んで、なんて矛盾した思いを抱く。
「なんでもなくないじゃないですか」
肩を掴む手が熱い。首を横に振るけれど、司は引きそうになくて。嫌なわけではないけれど、掴まれたところが焼けるようで。
「熱い、から……」
「っ……ごめんなさい!」
手を引っ込めた司の方を向けば、眉尻を下げた彼と視線が交わった。謝るのはこちらの方なのに。突然泣いた自分を心配してくれただけなのだから。
「この歌を知っているのですか?」
その問いにこくりと頷く。溢れる涙をそっと拭ってくれる司の指先が温かくて、ほんの少しだけその手を掴んだ。温かくて優しくて、出来るものならずっと触れていたいと思った。
「ごめんね、かさくん。ちゃんと話すから」
こくりと頷いた司の目を見て、ぽつりぽつりと話し始めた。自分が育った海にいた、大切な友人のことを。
夕焼けのような橙色の髪に、エメラルドの瞳を携えた友人がいた。彼は歌うことが好きで、それ以上に歌を作ることが好きな人魚だった。
初めて出会ったとき、彼は岩場の上で人間が作った楽器を鳴らしながら歌っていた。絃を爪弾きながら奏でられるその曲は所々で止まって、少し戻っては進んでいく。
「……覚えてないのぉ?」
ぶっきらぼうに放った言葉に、彼はびっくりして目を丸くする。
「いつからそこにいたんだ!? カクレクマノミか!?」
「答えになってないんだけどぉ」
繋がらない会話に苛立ちながらももう一度尋ねれば、今作っている曲だから! と返された。その言葉に今度は自分が目を丸くする。そんな人魚に出会ったことがないからだ。
名前を尋ねれば、彼は月永レオと名乗った。月というより太陽だと思いながら自分の名前を名乗れば、彼は眩しいくらいの笑顔を浮かべる。
「じゃあ、これは『初めてセナと出会った日の歌』!」
幼さの残る、けれども人を惹きつけてやまない歌声。聴き惚れていた泉は、綺麗なメロディに乗せられる適当な単語に眉を顰める。音楽の才能があるのと、言葉選びのセンスは別物らしい。文句を言えば、じゃあ自分で考えてと放り投げられた。やってみるとこれがまた難しく、頭を捻りながら言の葉を並べていく。なんとか生み出したそれを歌ってみせれば、レオはにっかりと笑った。
それからというもの、泉とレオは一緒に過ごす時間が多くなった。彼はいつも奇想天外なところにいて、作曲に熱中すると周りが見えなくなることが多かった。危ないから気を付けろと口を酸っぱくして言っていたけれど、言ったところで気を付けるようなやつではないことも分かっていた。だから自分が、気を付けなければいけなかったのに……
いつも通り作曲に夢中になるレオに呆れて、いつもなら安全なところにまで引き摺っていくところを、その日は放置して海の中に戻ったのだ。遠くに見える船に霊感が湧き上がったという彼を、岩場に残して。
翌朝岩場へ向かうと、彼の姿はそこには無かった。残されていたのは壊れた楽器だけ。慌てて彼が好んだ場所を探すも、二度と会うことはなかった。きっと人間に見つかってしまったのだと、誰もが口を揃えて言った。
「……だから俺は、人間が嫌いになった。あいつはもう、死んだと思ってた。それなのに……」
ぽろりと溢れたそれは、嬉しさからくるものだった。
「まさかとは思いますが……」
「うん、そのまさか。さっきかさくんが聴かせてくれたのは、そいつと作った歌だよ」