水泡にKiss
まさか人間たちの間で流行るなんて、誰が想像しただろう。どんな人間の元にいるのかは分からないけれど、隣の国のどこかで元気にやっているのだと、歌が教えてくれた。……元気でいてくれるなら、それでいい。それだけで、十分だ。
「豪華な伴奏までつけちゃってさ」
あはは、と笑えば、司は優しく微笑んだ。
「思いもよらないpresentになりましたね」
「うん、ありがとうね。……あーあ、初めて他人の前で泣いたかも」
忘れてね、と告げれば、秘密にしますと返された。
再びハンドルを回した司が、一緒に歌を口ずさむ。窓辺にやってきた小鳥も囀るものだから、可笑しくて二人して笑った。
「久しぶりに歌ったかも」
歌えばレオのことを鮮明に思い出してしまうからと、暫く歌うことが出来なかったのに。偶然か、必然か。何にせよ司のおかげなのだ。
「瀬名さんの歌声が聴けて良かったです」
とろりと溶けそうな笑顔が可愛らしくて、思わずその頬に手を伸ばす。
「瀬名さん……?」
柔らかなそこに触れて、撫ぜて、摘んでみる。司の瞳がきょとんと丸くなった。ずっと触れていたいけれど、指の先が熱くてこれ以上は耐えられそうにない。そっと手を離せば、頭の上に疑問符を浮かべた司が確かめるように頬を触る。
「かさくんのほっぺ、柔らかいね」
緩やかに口角を上げれば、司の顔が次第に真っ赤に染まっていく。
「瀬名さんの手は、冷たくて、心地いいです……」
消えるような語尾と伏し目がちな瞳。きっと今その頬に触れれば、大火傷をするのだろう。いや、もう手遅れな気がしてならないけれど。
指先以上にじわじわと熱い、心臓の奥。
どこかで司を呼ぶ声がする。もうすぐとこかに行ってしまうのだと、そう理解して──
「せ、なさん……?」
司の小指に、自分のそれを絡めた。まだ冷たい、左手の小指を。
「秘密だから、約束して」
本に書いてあったのだ。人間はこうして約束をするのだと。こくりと頷いた司の瞳を見つめ、熱い指を解いた。
「いってらっしゃい、かさくん」
第三章
波の音、小鳥の囀り、誰かの声。そして、足音。海の中では聴くことのないそれに、初めは怯えていたけれど、漸く慣れてきた。ドタドタ、ぱたぱた、よく耳を澄ませば一人ずつ違うそれのなかで、司の足音を聞き分けられるようになった頃。
誰の足音もしないのに、きぃと音を立ててバスルームのドアが開いた。
「……?」
司の足音に気付かないくらい読書に熱中していたのかと、はっとして顔を上げれば、司よりも薄い紫を携えた桜色がそこにいた。
驚いて声が出ないのは、どうやらお互い様らしい。ぱちりと瞬きを繰り返す姿がどこか司に似ているその人間は、小さく開いたままの口からゆっくりと息を吐き出した。
「はぁ……」
信じられない、とでも言いたげな表情に眉を寄せる。
「何、あんた」
「それはこっちの台詞じゃ」
その声を聴いて、扉の向こうから何度か司を呼んでいた声の主だと気付いた。
「こっそり動物でも飼うとるんかと思うて見てみたら……」
頭を抱える姿に、むっとして口を尖らす。どうせ自分は厄介でお荷物な存在なのだ。分かっている。
「かさくんは?」
「かさ……? ああ、坊のことか。お偉いさんとの会食で暫くここには来いひんよ」
寧ろその隙を狙ってここに来たのだろう。逃がすつもりだったのか、それとも……
「何や隠しとるんは分かっとったけど、まさか人魚やとは思わんかったわ」
「あっさり殺せるような生き物じゃなくて残念でした」
なんて皮肉たっぷりに言ってやる。いや、きっと殺そうと思えば今すぐにでも殺されてしまうのだろう。こんな狭いバスタブの中に逃げ場なんてない。けれどもその後の処理も楽ではないはずだ。それに消えた、逃げた、死んだと言って、納得する司ではないだろう。
「……せやね」
困ったように笑う顔が、司にそっくりだと思った。
「あんた、かさくんの弟?」
そう尋ねれば、ふるふると首を横に振られる。
「ちゃうよ。血のつながりはあれど、薄くて遠い存在や」
ふうん、と返してバスタブに沈む。自分の方が、余程──……
「こないなこと言いたないけど……朱桜の兄はんの熱が上がる前に、出て行って欲しいんよ」
帰りたくないなんて思い始めてしまった自分を見透かされているようで、血が上りそうになるのを抑えながら淡々と返す。
「俺は傷の手当てをしてもらっただけ。言われなくても帰るから」
自分に足が生えていれば、今すぐにだって城から出ている。そう付け加えたけれど、本当にそうなったとして、分かれも告げずに出て行けるだろうか。
「助かるわ。あれでいて高貴なお人やからね、結婚かて自分の思うようにはいかん」
眉を下げる姿から、司のよき理解者なのだと分かった。ここに来たのも、全ては司の為であり、国の為でもあるのだろう。
「ほな、話は済んだし戻るわ」
「……あんたが海に連れて行くんじゃないの」
「そないなことしたら、坊は一生ぬしはんのこと忘れられんし、わしのこと怨みよるわ」
桜河こはく、と名乗った従者は、お互い今日のことは秘密にしようと告げてバスルームを出て行った。
*
夢を見た。凛月や嵐が自分の名を呼んでいる夢。手招きするその向こうに、レオの姿も見える。危ないよ、戻っておいで、なんて言っているのが表情からも分かる。けれどもだんだん声が遠くなって、姿も霞み始めて。置いて行かないで、そう思うのに声も出ない。
振り向けば悲しそうに微笑む司の姿。さようなら、と唇が動く。司の傍にはこはくと、花嫁衣装の女性がいる。
まって、それじゃあ俺は、どこに──……
目が覚めた。と、同時に誰かに見られている気配がした。誰かなんて一人しかいなくて。寝ているフリをして様子を伺えば、司の声がぽつりと零れた。
「傷口も顔色も、大分良くなって来ましたね」
優しくて温かな声は、眠っていても問題ない、それどころか寧ろ眠っている方が都合が良いと言わんばかりに密やかなまま、言葉を続ける。
「そろそろあなたを帰さなくてはならないですね」
ずきりと胸の奥が痛む。帰りたいと願っていたのは自分だ。それなのに胸が痛むのは、相反する気持ちを抱えているから。
「……帰らないでください」
悲痛な声と共に降ってくる熱い雫。目を開けなくても司の涙だと分かった。ここで目を開けてしまえば、帰りたくないと言ってしまいそうで。寝ているフリを続けて、聞かなかったことにしなければいけないと││そう、思っていたのに。それでも愛おしい存在を、抱きしめずにはいられなかった。
「瀬名、さん……?」
司の服が濡れるのも構わずその華奢な身体を引き寄せる。肩を伝う涙ですら愛おしくて、零れた瞬間に宝石になればいいのに、なんて頭の片隅で思った。
「帰りたくないって言ったら、どうする?」
小さな声で囁けば、ぴくりと身体が跳ねる。
「えっ、」
「嘘だよ。そんなこと、出来るわけない」
ダイヤモンドのように輝くそれを舐め、目尻に口付ける。
「でも、あなたのご友人は……っ」