水泡にKiss
「あいつには作曲の才能がある。俺にはそんな才能はないし、かさくんがこれからも隠し続けられる保証もない。このバスタブには限界があるし、見世物になるつもりもない」
それにこれ以上自分の為に時間を費やせば、司はきっと倒れてしまうから。こはくの言葉が脳裏を過ぎる。司は国の為に決められた人間の女性と結婚するのだ。自分なんかに割く時間も心も、あってはいけない。
「……ありがとうね、かさくん」
ぱっと離れて笑顔を作れば、唇を噛みしめてこちらを見つめる司と視線が交わる。
「お礼を言うくらいなら、kissしてください……」
涙に濡れたアメジストが綺麗で、吸い寄せられるように顔を近づける。指の先で頬に触れれば、司はそっと目を閉じた。
触れるだけのキスは柔くて、熱くて、却って切ない。
「そろそろ寝な」
明日も早いんでしょ、とその頭を撫でてバスタブの中で丸くなる。ぎゅっと瞼を閉じれば、司は諦めたのかバスルームを出て行った。
唇に残る熱と司の甘い香りを、今後一生、忘れることは出来ないのだろう。
*
「今日の夜、あなたを海へ帰します」
おはようの挨拶から続けられた言葉に、唯々頷く。
「夜の会食を終えたら、迎えに来ますね」
司はバスルームを出る前に、今日の本を一冊椅子の上に置いていく。『人魚姫』と書かれた背表紙には濡れた痕。まだ乾いていないそれを撫で、ゆっくりと本を開いた。
惚れた王子に会いに行くために、美しい声と引き換えに足を得た人魚姫。そんな都合のいい話が、なんて笑い飛ばしそうになった時に、友人たちが話していたのを思い出す。
「朱い真珠……」
それを飲み込むと、人間になれるのだと言っていた。馬鹿馬鹿しい、と鼻で笑ったそれに縋りたくなる日が来るなんて想像も出来なかった。
けれど人間になったところで、女になれるわけではない。地位があるわけでもない。それでも司は望んでくれるだろうか。人魚でも女でもない自分のことを──……
*
会食を終えた司は大きな布を手にバスルームを訪れた。直接触れぬように、万が一のことがあった時に隠せるようにという配慮なのだろう。最後まで優しいのが司らしくて、そんなところが好きだけど、今だけは嫌いだ。
優しく抱えられて、バスルームの外に出る。壁の本棚にびっしりと本が詰まった司の部屋。長い廊下、月明かりに照らされた階段、花咲く庭園。終始無言のまま、庭の外れにある階段を下りればより一層潮の香りが強くなる。ぎゅっと砂浜を踏みしめているのが身体越しに伝わってくる。
目の前に広がる海にほっとして、それなのに心臓が痛い。
言葉が見つからずに悩んでいると、司の方から口を開いた。
「またここで、会うことは出来ますか」
「……出来ないよ」
自分の命を危険に晒すことは出来ない。それ以上に、司に期待を持たせることはしたくない。それでも……考えあぐねていた一縷の希望を口にする。
「でももし、俺が人間になれたら……」
「なっ、なれるんですか!?」
思わず大きな声を上げた司の口を掌で塞ぐ。
「朱い真珠を飲み込んだら人間になれる、なんて噂話があったのを思い出したの。本当かは知らないけど」
下ろして欲しいと頼めば、司はざぶざぶと海の中へ入って行く。水面が腰まで来たところでそっと海へと降ろしてくれた。久しぶりの海は心地よい。海に潜ってくるりと回り、身体を伸ばす。それから司のところに戻ってみれば、ずっと見上げていた司と同じ目線だということに気が付いた。
「俺が人間になれたら、愛してくれる?」
「愛しますっ! ……瀬名さんは人間になっても、私を愛してくださいますか?」
「人間になれたら、ね」
差し出された薬指に自分のそれを絡めて約束する。
「一週間後の夜、ここへ来て。朱い真珠を手に入れられたら、この浜辺に来る。手に入れられなかったら来ない。かさくんも心変わりしたら、来なくていいから」
首を横に振るその表情を脳裏に焼き付ける。キスをすれば離れられなくなってしまいそうで、じゃあねと手を振った。
第四章
海へと戻ってきてからまず、凛月と嵐に会った。泣きつく嵐とほっとした様子の凛月に詫び、今までの経緯を掻い摘んで話した。ついでに、レオの話も。二人とも驚いた顔をした後、喜んでくれた。
「……で、前に話してた朱い真珠の話を聞きたいんだけど」
気恥ずかしさに視線を逸らすと、二人は一瞬言葉を失っていた。それもそうだ。人間嫌いの自分が、人間になりたいと言っているのだから。
「本当にただの噂だよ」
北の海にのみ生息する桜色の二枚貝。その貝から稀に採れる朱い真珠を飲み込めば、尾ひれがみるみる裂けていき、鱗が取れて人間のものと遜色ない足になるらしい。『人魚姫』の物語の中では美しい声と引き換えにした挙句、歩く度にナイフで刺される様な痛みが伴うとあったが、その真珠を飲み込むことで何を代償にするかは分からない。
「どうしても人間にならなくちゃだめなの?」
まん丸なルビーがこちらを見つめる。
「人魚のままじゃ愛して貰えない?」
司とよく似たアメジストは悲しげに揺れる。
「俺が、そうしたいだけだから」
北の海へは二日から三日はかかるだろう。探す時間を考慮すると、すぐにでも出発しなければいけない。じゃあね、と告げれば、二人は悲しげに手を振ってくれた。
人魚たちが棲む海域は粗方決まっていて、生まれた場所から移動するものは少ない。人間に棲家を荒らされた者たちか、変わり者ばかりだ。そういった人魚たちから聞いた話では、北の海に棲む者は殆どいないということだった。つまりは朱い真珠のことを知っている者もいないということだ。
水温が段々と下がっていくにつれ、魚たちの種類も変わっていく。海面から顔を上げれば空気が澄んでいて星がいつもより綺麗に見える。凍えるほどではない寒さは好きだ。脳が冴えわたるような、凛とした空気感が好きだ。
それなのに思い出すのは、司の体温。春の麗らかな日差しのようでいて、その実夏の容赦ない暑さのようでもある。心臓の奥が焼けたままで、ひりひりと痛い。このままでは終われない。今後一生火傷の痕を抱えて生きていくなんて、まっぴらごめんだ。
休むことなく泳いだ末に辿り着いた海は、美しくも寂しい所だった。
沈んだ町や船を眺めながら桜色の貝を探した。漸く見つけたその貝は、一際寂しい場所で群れを成していた。
朱い真珠が欲しいと頼み込めば、ひとつの貝がぱかりと開く。ころりと現れたそれは燃えるような朱い色をしている。
「貰っていいの?」
そう尋ねると、貝たちは真珠を残して去っていく。泉はそっとそれに触れると、大切に握りしめてきた道を戻った。
*
長いようで短い一週間が過ぎようとしていた。
泉を海に帰した直後、司はバスルームへ戻ると溜まっていた海水を抜いた。空っぽのそこで丸まって寝ていると、泉の匂いがして安心した。
翌朝起こしに来てくれたこはくが、困ったような、それでいてどこかほっとしたような顔をするものだから申し訳なかった。まさか主人がベッドに居らず、バスタブの中で一夜を明かしたとは思ってもみなかったのだろう。
「そないなとこで丸なっとったら、身体壊すで」
「……そう、ですね」