にゃんこなキミと、ワンコなおまえ6-1
気遣う色がかすかににじむ宇髄の声に、尊大に胸を張ってみせる。虚勢でしかないのは宇髄や不死川にはバレバレだろうが、二人が揶揄することはないことぐらい、知っている。信じるなんて願望じゃない。知っているのだ。だからこそ、気力を振り絞れもする。
だが伊黒の意気込みとは裏腹に、そんな会話のあいだも義勇と杏寿郎だけは、終始無言だった。
怪我はしてないかと宇髄や不死川に聞かれ、パッと顔をあげた義勇が杏寿郎の全身をパタパタと探り、服に散った血がすべて返り血だと確かめるあいだも。
そうして、ひとしきり杏寿郎が無傷であるのを確かめた義勇が、ふたたびギュウッと抱きついても、杏寿郎は動かなかった。
義勇に抱きつかれている杏寿郎の姿なんて、みんな見慣れている。けれども、それは一度も見たことのない姿だ。この二人は、どちらかが抱きつけば、すぐさま抱きしめ返し笑いあうのが常だ。だから伊黒たちは、こんな二人を見たことがない。なかった。これから先も、ないはずだった、その光景。
義勇の顔も青ざめて震えてはいたけれど、杏寿郎の顔はそれ以上に蒼白だ。うなだれたまま、義勇を見返すことすらない。茫然自失した杏寿郎の顔は、絶望の底を覗いてでもいるかのように見えた。
いつもなら義勇の背を抱く腕は、だらりと下がったままで見るからに力ない。それでも血に濡れた拳は固く握りしめられて、小さく震えていた。義勇の背を、抱き返すことなく。
サイレンが止まり、驚愕の声が聞こえるまで、義勇は震えながらも杏寿郎を抱きしめていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
感情をどこかに置き忘れてきたかのような、杏寿郎のあの日の顔。あれをまず目にしてしまえば、宇髄たちが、被害者であるはずの義勇に対して以上に、杏寿郎を案じるのは当然だ。
それぐらい、あの日の杏寿郎は痛々しかった。
いつだってキラキラと輝いていた瞳に、光はまるで感じられず、焦点すらあっていない。明るいいつもの笑みはどこにもなく、小さく震えていた。きつく引き結ばれた唇は血の気がなくて、叫び声を必死に飲み込んでいるようだった。握りしめた拳も力がこもりすぎ真っ白で、手のひらに爪が食い込んでいるのが傍目にもわかる。
心が砕け散った人は、きっとこんなふうになるんだろう。そんなことすら思わせる、杏寿郎の姿。それでも、杏寿郎は我を抑えつけていた。いま杏寿郎の身のうちに吹き荒れる感情がなんであれ、それを義勇にぶつけてはならないと、絶望だけを抱きしめている。取り繕うこともできずにいてさえ、義勇を傷つけまいと絶叫も涙も抑え込んで、ただ絶望の淵を見つめている。あんな杏寿郎は、伊黒だって二度と見たくはない。
誰よりも義勇こそが、二度とごめんだと思っているだろうに。それでも義勇は信じないのだ。他人が自分になんらかの価値を見出すことなど、ありえないと思いこんでいる。
杏寿郎や煉獄家の面々から注がれる愛情や、うぬぼれでないなら伊黒たちの友情であれば、疑うことなど一切ないくせに。義勇はそれでも、俺なんかに関心を持つ人がいるわけないだろうと、信じている。
中三のときのあれでさえ、八つ当たりの的にされただけだと思いこんでいるのだから、本当に呆れ返るよりない。
義勇の流されやすい悪癖が、そんな自己卑下からきていることは、誰の目にも明らかだ。言い聞かせても納得しないから、なおいっそう、みんな義勇をかまい倒してしまう。おまえはちゃんと愛されていると信じさせたくて躍起になる。信じないのなら自分が守ろうと、庇護欲を掻き立てられもするらしい。
伊黒ですら、なんのかんの言いつつも義勇を放っておけないのだから、面倒見のいい不死川や宇髄は当然、義勇を優先させてしまいがちだ。伊黒がそうならないのは、杏寿郎を案じるむきのほうが強いからにほかならない。
その理由はと問われても、伊黒には答える気が毛頭ない。従弟だからと言えば、それなりに納得はされるだろう。だが真の理由を口にするのは無理だ。恩人だから。その言葉を口にすれば、いまだ重く伊黒の肩にのしかかる過去が襲いかかってくる。どれだけ注意深くいようとどこから漏れ広がるかわからぬ以上、不用意に話せることではなかった。
不安はもはや確信に近く、だから伊黒は口にはできない。感謝はいつでも胸にある。それでも言葉にすることはできそうになかった。
槇寿郎に、命を救われた。杏寿郎には、心を救われた。だから今、伊黒はこうして生きている。血はつながらずとも慈しんでくれる家族に恵まれたのも、気の置けぬ友人を得られたのも、煉獄家の人々あってこそだ。
それはともあれ、あの事態においては、宇髄や不死川の懸念が義勇よりも杏寿郎に向かっているのはたしかで、義勇の進学が杏寿郎に与える影響を案じているのは伊黒にもわかった。
伊黒もそれは変わらない。もともと杏寿郎贔屓なだけに、その傾向は伊黒のほうが強くもある。
だからこそ、義勇が平然と危機感なく歩き回ることに、誰よりも苛立ってもいた。
不満と疑問に触発され思い出された昨日の昼休みの記憶に、苛立ちはますます深まった。
「……おい、本気か?」
唐突な伊黒の言葉に、義勇はキョトンと首をかしげている。言葉足らずは義勇の専売特許だというのに、これじゃわかるわけないだろうと、伊黒は舌打ちしそうになった。とどまったのは、義勇の一言によってだ。
「先生には大丈夫だろうって言われた」
「成績の問題じゃない。杏寿郎をどうする気だ。昨日は笑っていたが、あいつは本当に納得しているのか?」
伊黒の問いに返った答えは、疑問を正しく理解したことを示している。けれども、その答えに納得がいくかは別だ。納得できないのは自分のほうだと自覚しつつも、伊黒は問いたださずにはいられなかった。
「貴様が一人でこの町を離れるなど、杏寿郎が納得するとはとうてい思えんのだがね。どうやって言いくるめた。いや、それよりもまず、貴様が正気か。杏寿郎がどれだけ貴様の身を案じているか、わからないわけじゃないだろう」
自分も案じているなど、絶対に言ってなどやるものか。意固地になる自分の胸の奥には、ほんの小さな嫉妬がひとかけら、ころりと転がっている。
空っぽだった自分の心に差し込んだ、暖かな光。自分ひとりのものではないことぐらい、敏い伊黒は幼心に理解していたけれど。
『たい? いちゃいのとんでけしゅる?』
『きょうじゅろはね、みっちゅ!』
ちっちゃくて温かい手。明るい笑顔。切り裂かれた口を包帯で覆った自分の顔は、幼子には恐ろしく見えただろうに、杏寿郎は、笑ってくれた。
見舞いに来てくれた槇寿郎とともに病室にやってきた杏寿郎は、なにを言われたのかわからぬままに怯えうつむく伊黒の頭を撫でて、痛いの痛いの飛んでけと何度も真剣な顔で言い、もう痛くない? と笑った。
伊黒が、もう大丈夫なのだ、痛みに泣きひもじさを耐える日々はもう終わったのだと、心から安堵したのは、小さな杏寿郎のその笑顔を見た瞬間だったかもしれない。
作品名:にゃんこなキミと、ワンコなおまえ6-1 作家名:オバ/OBA