確かなもの
夏の夜風が妙に肌に生暖かに感じて、雨上がりの午後のような、それはとてもとても不思議な高揚感があった。
最愛の人であった光葉慎弥を亡くしてから、一年が過ぎ経ち……、そして私は、柚飼一哉と出逢った。
齋藤飛鳥・乃木坂46卒業SP企画
二部構成作品・第二部『確かなもの』
1
2023年度最のランウェイ・モデル・ショー【Tokyo・Super・Collection(東京・スーパー・コレクション)】会場の裏側はもうしっちゃかめっちゃかなごった返しで、モデルやデザイナー、ありとあらゆる専門スタッフで混沌とした状態だといえた。
そんな中、〈飛鳥〉と〈アンダー・コンストラクション〉のランウェイは大成功。一般人のお客さんは、直接前乗りして並んだお客さん達だけだけど、各所のメディアにはしっかりとチェックされ、これではれて私のデザイナー人生のデビューとなった。
ファッション・ランウェイの時間終了後のステージで、乃木坂46がミニライブを盛大に飾っているうちに、私は出演してくれたモデルさん達にお礼の挨拶をしに向かう。
芸能人や、ファッション・モデル、俳優さんや、女優さんにも、今回協力していただいた。まだ無名に等しい私のブランドにおいて、こんなに手厚い協力行為はありがたすぎて、頭が上がらなかった。
それは〈アンダー・コンストラクション〉による、ファッション雑誌、及びメディア雑誌への新ブランド〈飛鳥〉の売り込みによるものだった。
大きな借りができてしまったなと、古巣である〈アンコン〉に思いを馳せていたら、もう〈飛鳥〉のランウェイを歩いてくれたモデルさん達の前であった。
スタッフさんが、私の札を見て、デザイナーさんだと大声で説明をする。女優さんや俳優さんはさすがにもう帰ってしまっていたが、モデルの方々は皆残っていてくれていた。
私は、人見知りを発動させないよう、極力笑顔を意識して、挨拶をする。
とはいっても、短いスピーチがあるわけでもなくて、簡単な感謝の言葉と、単純に伝えたい言葉が幾つかあるだけだった。
「えと……。本日は、本当にありがとうございました。〈飛鳥〉というブランドも、最初に着ていただけたのが皆さんのような、素敵な方々で、ブランド自体も感謝していると思います。ええ、私も、なんだか、今日ここに集まって下さった皆さんには、運命みたいな、そんなご縁のようなものを感じます。また、これからも、各所で見かけるだろう〈飛鳥〉の方を、御贔屓に、どうぞよろしくお願いいたします」
拍手と小さな喝采が返ってきた……。こういう世界に、これから跳び込むのだと、そこでも深い実感と確信めいたものが胸に湧いてきた。
飛鳥は皆の顔を一人一人、記憶しようと思い、頷くように小さく会釈を繰り返しながら、一列に並んだ男女のモデルの集団を見つめていく。
そこで、飛鳥はその視線を止める。
「え……」
「ありがとうございました」
「ああ、はい…、こちらこそ、ありがとう、ございました……」
「ありがとうございました」
「ありがとう」
「ありがとうございました」
「ありがとう」
すぐに流れるような作業で次々と並ぶモデル達への挨拶にかわっていったが、確かに、その立ち並ぶモデル集団の中には、昨晩、あの森林公園の夜に、共に飢えた野良の子猫を動物病院へと連れて行った男がいる――。本人は、ここではその話をしたくなさそうな素振りをしているが、間違いはないはずだった。
その不愛想で端正な顔には、見覚えがある。
確か、名前は、ユズカイ、イチヤだとか……。
ショーの終了後、大物デザイナーがマイクを持ってステージに登壇し、ショーに懸けた思いと若者へのメッセージを熱く語った。招待客からは喝采が湧き、拍手は少しの間止む事が無かった。記者会見やメディアの撮影が終わり、混沌と化していた今日の重要時間にようやく終わりが訪れた。
私は銀座本社の〈アンダー・コンストラクション〉に向かい、ショーで貰った手土産を紙袋いっぱいにひっさげて、デザイン制作部の仲間達に押し付けた。
梅澤美波は相変わらずのパンツルックにハイヒールで、飛鳥に強気の笑みを浮かべた。
「な~に、なに疲れてんの、あんたがこれからこの業界をひっぱってく超新星になんなきゃなんだよ!」
「いやいや、とりあえず、デビューしたということで、まあ今はそれで充分ですわ……」
飛鳥は弱々しく笑いそうで笑わずに言った。
「あ! お土産にお饅頭(まんじゅう)入ってる~!」田村真佑ははにかんで、飛鳥を見つめた。「食べていいんですかあ?」
「うん、うんいいの、どぞどぞ、食べてね」
「和菓子、あります?」遠藤さくらは紙袋の中を覗いた。
「和菓子もあるんじゃな~い?」鈴木絢音は中身を作業机に取り出していきながら、遠藤さくらを一瞥した。「早い者勝ちだよ」
「え、早い者勝ち……」遠藤さくらはゆっくりと指先と眼で物色する。「早い者勝ちかぁ……」
久保史緒里がビニール袋に沢山のペットボトルを入れて、作業部屋に入って来た。
「はい飲んで~、なんでもいいから選んで取って下さいね~、今日は飛鳥さんのデザイナー記念日だから無料だよ~~、私のおごりだよ~~」
「さすが、久保さん」
「久保さんさすがです、喉からっから」
田村真佑と遠藤さくらは、すぐにビニール袋のペットボトルを物色し始めた。
飛鳥は心置ける仲間の光景を見つめて、少しだけ、先ほどまでがちがちであったショーでの緊張感をほぐせていた。
梅澤美波はにやけて、無糖のアイス・コーヒーのペットボトルを、飛鳥の頬に当てた。
「冷めたっ……」
「だから言ったでしょ? あんたの夢は、本物だって」
「……うん、どう、なんだろう」
飛鳥は俯き、思いを巡らせる。ここに至るまでには、様々な人物達との出会いや尽力があった。
もはや、自分だけの夢と言っていいのかどうかが、よくわからずにいた。
「あんたががんばったの!」
梅澤美波の強い発声の一言に、飛鳥はその顔を見上げた。
梅澤美波は、口元を引き上げて、飛鳥の肩に手を置いた。
「齋藤飛鳥、このまま走れよっ!飛鳥、かんぱい!」梅澤美波は微笑んで、ペットボトルを小さく持ち上げた。「久保、ごち!」
「はいどうぞん。飛鳥さん、かんぱい!」久保史緒里も、ペットボトルを小さくかかげた。
「飛鳥さんかんぱい」遠藤さくらも。
「かんぱ~い飛鳥さ~~ん! いえ~~い!」田村真佑も。
「飛鳥さん、おめでとうございます」鈴木絢音も。「かんぱい」
「ありがとうね、みんな」飛鳥は、胸にじんわりと込み上げる温かな感情を感じた。それは涙にはせずに、微笑みに変換した。「本当に、ありがとう――」
銀座本社を出た後は、徒歩で〈アンダー・コンストラクション〉のショップの方へと出向いた。
店じまいをしていた店長の秋元真夏が、最初に挨拶に来た飛鳥を歓迎した。
「飛鳥、おめでと~、どうだった? 緊張した?」
「ふふん、そうりゃあね……。でも、うまくいきましたので、そのご報告に」
ショップ店員の与田祐希が大きな笑顔で寄ってくる。
「飛鳥さん、ご飯行きましょう?」
「え?」