確かなもの
「メスなのこいつ?」
「メスだってお医者さんが言ってたじゃない……」
「ふうん」柚飼一哉は、つまらなそうに、飛鳥から少しだけ距離を置いて、ベンチに腰を下ろした。優しく、子猫を地面に下ろした。「ほら、遊んどいで……。あんまり遠くに行くなよ、飛鳥」
「ちょ、……その名前、変えない?」飛鳥は弱ったように柚飼一哉を睨みつける。「やめてよ、いちいち気になるわ……」
「どう変える?」柚飼一哉は飛鳥を見つめた。「じゃあ、変えなよ」
「私が?」飛鳥は強調するように言った。「なんで私が……、あんた飼い主でしょう? 自分で決めなさいよ…名前ぐらい……」
「飛鳥」
「だぁかぁら!」飛鳥は睨む。「からかってる?」
「何それ……、買い物?」
柚飼一哉が見つめた先にあるのは、飛鳥の持ってきた小さな紙袋であった。
少しだけ、涼しい風が森林を揺らして走る。
「あ……。これ」飛鳥は、紙袋をがさごそと開いた。「首輪……。名前は、知らないから、ネームプレートはまっしろ」
「へー……、どうも」
「名前、考えなさいよ?」飛鳥は、呆れた素振りで、柚飼一哉に首輪を手渡した。「はい」
「まっしろか……」
「え?」
「ネームプレートはまっしろだって、言ったろ?」柚飼一哉は飛鳥を見つめた。「それでいいよ、こいつの名前」
「シロ?」飛鳥は上目遣いで無表情になる。
「真っ史郎(まっしろう)」柚飼一哉は、脚元に戻って来た子猫を見下ろす。「漢字がいいけど、カタカナもいいな……。マッシロウ、……うん。カタカナでマッシロウにしよう」
「どうでもいいけど、あんたのネーミングって、考えてるようで全然考えてないね……。飛鳥もマッシロウも、そのまんまやん」
「あんたの一部がいいんだよ」
「へ?」
飛鳥は、柚飼一哉をふいに見ていた。
柚飼一哉も、飛鳥の事を見つめる。
子猫はたまに、小遣いを強請る子供のように喧しく鳴いていた。
「齋藤飛鳥が救った命なんだから、齋藤飛鳥の何かからもらった名前が、一番いい……」
「………」飛鳥は、ゆっくりと視線を外して、子猫を見下ろした。「別に、いいけど……」
「付き合ってる人、いるの?」
「え?」
飛鳥は、意外すぎたその一言に、ふいに柚飼一哉に顔を急がせていた。強く肌寒い風に、長い髪の毛がそよぐ……。
耳の下で風に靡く髪の毛を抑えつけて、顔にかかる髪の毛に、飛鳥は眼をしかめた。
「付き合ってるの?」
また、不愛想な顔から、意外すぎるその一言が発された。
飛鳥は風にそよぐ髪を振りほどいて、澄ました顔をした。
「なんで?」
「なんでだろうな……。誰かを好きになるのに、理由なんて、考えたことないな……」
「………」
「なんで、か……」柚飼一哉は、子猫を抱き上げて、膝の上に乗せた。「マッシロウ、お前は今日から、マッシロウだからな……」
「………」
厚紙のストローを唇に咥えて、意味もなく、飛鳥は時計灯の方を見つめた。随分と気まずい空気が流れているような気もするが、柚飼一哉は清々しくマッシロウと一方的な会話を楽しんでいた。
時間は、深夜の一時半を過ぎそうであった。
「言い方、変えようかな」
「……」
柚飼一哉は前にある夜の風景を見つめて、そう呟いた……。
飛鳥はストローを咥えたままで、沈黙していた。
「君を好きになりました……」
飛鳥は静かに、眼を見開く……。
――君を好きになりました。
いつか、最愛の人に言われた、出逢って最初の、愛の告白……。
全く同じセリフ……。
飛鳥は荒ぶりそうな吐息を瞬間的に、咄嗟(とっさ)に落ち着けようとする――。しかし、その耳は正直で……、愛しいその言葉を掴(つか)んでは、放そうとしない。
記憶のどこかで、あの日の、その言葉だけが蘇って、重なる……。
柚飼一哉の声が、過ぎ去った最愛を思い出させる……。忘れた事さえない、その言葉と。
重なってみせる。
どうしてだろうか――。なぜだろうか――。意味も解らず、ただ胸が熱く苦しくなる。
探していたものが見つかった時のように、不思議な安堵感がある。
気がつくと、飛鳥の頬には、涙がこぼれていた。
忘れた事なんて、一日だってないのに、ないはずなのに……。
今はっきりと、思い出したかのような錯覚がある。
思い出さない日なんてなかったはずなのに。
齋藤飛鳥を見つけ、その果てしない優しさで包み込み、齋藤飛鳥を最後まで愛し、最後まで守り通した、彼の最初の愛の言葉……。
光葉慎弥の使った、最初の魔法……。
「え……」柚飼一哉は、ふと泣いている飛鳥に気がついて、動揺する。「なんで、泣くの……」
飛鳥は顔をしかめて、それを手で覆(おお)い隠して、声を殺して泣いた……。
ベンチに寝転がったマッシロウが、飛鳥の洋服に爪をひっかけてじゃれついた。
「おお、おい、おいおい、マッシロウ……、お母さん泣いてるだろ、ひっかいちゃダメだろ……、空気読めよな……」
「……はっは、……ふっふっふ」
飛鳥は涙を手のはらでぬぐいながら、柚飼一哉の言葉が可笑しくて笑った。
柚飼一哉は、マッシロウの爪を、飛鳥の洋服からすっとはがして、マッシロウをベンチに置いた。
飛鳥は涙をふいて、笑いを落ち着けながら、柚飼一哉を見つめた。
柚飼一哉は、ベンチに座ったまま、前の方を見つめたままで、飛鳥の左手を握った。
飛鳥は、柚飼一哉を見つめたままで、完全に息を落ち着けた。
「今は、答え聞かない事にする……。ただ……、あんたのそばにいたい……」
飛鳥はまた、まだ乾(かわ)いていない頬(ほお)を、右手の指先でぬぐって、それから、微笑んだ。
「うん……」
弱く、返事をした。
柚飼一哉の声が返ってくる。
「何も聞かない……、ただ、ラインとかしたい……。して、いい……」
「うん……」
「家近いの、送っていきたい……」
「近くない……」
「なら、なおさら送ってく……、いい……」
「う~ん……、うん……」
「夜、たまに……、ここに会いに来ていいかな……」
「……。うん」
「誰かを、好きなんだ……」
「ふふ、何も聞かないんでしょ」
「そっか……。俺は、残りの人生使って、待ってるつもりだから……。何も急がなくていい、何も、捨てなくていいから……」
「うん……」
「たぶん、一生好きの、好きだと思うから……。誰かを守りたいと思ったのは、初めてだから……」
「うん……」
夜の深い場景を見つめていた飛鳥は、ふっと、こちらを見つめた柚飼一哉を、じっと、落ち着いた視線で見つめ返した。
握った手に、仄(ほの)かな力が籠(こ)められる。
「君を守ると決めた………」
「……、うん」
「勝手に守れば…、とか、思ってる?」
「……んふ、うん」
「あ、そう……」柚飼一哉は、薄い笑みを浮かべた。「じゃあ、勝手に守る……」
「うん」
「も少し……、手、握ってていい……」
「……うん」
まだ誰なのかもよくわからないこの人に、強く強く、惹かれていくのがわかる……。心の奥の奥の、奥の方にある、大切な何かに、この人になら、触れられてもいいような気がした。
まだ、好きかどうかもよくわからないけれど、嫌じゃない。
この人の声が、私の中に流れていく……。