確かなもの
「いきぃ、ますはい! いけます」
音声部――録音。出演者のセリフや周囲の音などを録音し、音の素材を集める。
「照明もだな、流れを気にして、本番さながらに、一回やってみよ」
「照明オッケーで~す!」
照明部――。ドラマのシーンに応じて、心理描写や時間の流れなどを光で表現する。
「はい本番さがら、――お願いします!」
アシスタントディレクター ――AD。ディレクターの補佐役。演出面における監督の偉功を汲んで、その為に必要なありとあらゆる業務を行う。
技術、美術、制作部などとの内部交渉はもちろんの事、外部との渉外、現場でのスケジュール調整、などなど、現場で起こる全ての雑事が仕事といっても過言ではない。
「あでしたら、ねえ、碧(あお)ちゃんにも入ってもらいましょうか、ね……」
佐島優実(さじまゆうみ)(42歳)――アシスタントプロデューサー。プロデューサーの補佐役。現場での役者ケアや編集スケジュールの管理、脇役などのキャスティング、番組活動の仕込みなど、その業務は現場に留まらず、ドラマにおける最も多忙なポジションの1つでもある。
「碧ちゃん、おいでおいで……、さっきんところ、試しで一回回すから、お願いできる?」
「あ、はい。わかりました。台本持ったままで……」
「持ったままで大丈夫」佐島優実は台本を開きながら、にこりと笑った。「ここから、お願いしまぁ~す」
「はい」
鈴木碧(すずきあお)(25歳)――出演者。女優。このドラマのヒロインを務める新進気鋭の若手人気タレント。
「待てよ……、話…、聞いてるだけじゃねえか、何も、泣かなくったって……」
「攻めてるんでしょう、私を悪者だと思ってる……」
「そんなこと」
「思ってる!」
「カット!」
すぐに涙をふいた鈴木碧の前に、ヘヤメイクのスタッフが走った。髪型やメイク直しを素早く行う。
柚飼一哉にも、同じくスタッフが立ち寄っていた。
「柚飼くん、休憩ね。楽屋の方に、弁当用意してるから」
「あ、どうも……」
「碧ちゃんも、休憩の時間にして下さい。食事とっていただいて、けっこうですんで」
「は~い」
「楽屋の方に、用意させてもらいましたよ〜う。さ、美味しく食べてね」
神谷譲二(かみやじょうじ)(45歳)――制作部。監督のイメージを元にロケ地を選定したり、それに伴いロケ使用時に必要な許可取りを行い、撮影がスムーズに行えるように環境を整える。
また、撮影時のキャスト・スタッフ等の食事の用意、撮影現場での人員整理、ロケ場所の地図製作などその業務は多岐にわたり、たびたび「現場の母」と呼ばれる事もある。
柚飼一哉は、ぺこりと会釈して挨拶をぼそぼそと口にしながら、スタジオのセットから出て、通路を歩いて、楽屋へと移動した。
扉を開いて、柚飼一哉は呆然と動きを止める……。柚飼一哉様と書かれた張り紙がある楽屋の中には、先に鈴木碧が入り込んでいた。
鈴木碧は、柚飼一哉とは高校の同級生であり、同じく芸能界へと進んだ俳優仲間でもある。現在人気を博している柚飼一哉に対して、鈴木碧は少し前にすでに人気がヒットしており、世間的な知名度で言えば、鈴木碧の方が圧倒的であった。
「なんで、いるんだよ……」
「柚飼くん、最近、元気ないから……。気になってて」
柚飼一哉は椅子に座る。テーブルの中央には、ラベルの剥がされたお茶系と思われるペットボトルが三本と、有名どころの弁当が三種並べられていた。
柚飼一哉は、サンドウィッチの弁当を選んで、すぐに弁当を開けた。
鈴木碧は、テーブルに頬杖をついて、楽しそうに柚飼一哉を微笑んで見つめている。
「元気、無くない……」
「毎日、ぼんやりしてて、撮影の時以外は、いっつもつまらなそうにしてて……。つい最近、何かあったのかな、て思うぐらい調子いいなって思ったら……、また、つまんなそうにしてる」
「つまんなくねえし。楽しいよ、この業界……」
「そうじゃなくて。最近、何か、あった?」
「………」
「あったんだ」
「別に……、鈴木に言う事じゃないし。何もない」
「私は柚飼くんが好きなのよ?」
鈴木碧はくすん、と笑った。
柚飼一哉は、咳き込んでいる。
「早く返事聞かせて?」
「いや……」
柚飼一哉は、珍しいものを見る眼で、鈴木碧の顔を一瞥した。
鈴木碧は、整った童顔をまっすぐにして、頬杖であごを隠しながら、柚飼一哉の顔を嬉しそうに見つめていた。
「断った、よな………」
「ううん、聞いてない」
「いや………」
「高校時代は、恋人同士だったじゃん……。もう一回、柚飼くんの彼女になりたいの……。今度は、君を逃がさないから」
「………」
「私を見て」
鈴木碧は国民を魅了させた美形を、柚飼一哉だけに、真剣なものにして向ける。
柚飼一哉は、鈴木碧の顔を見つめてから、忘れていたかのように、サンドウィッチの続きを食べ始めた。
「ごめん」
「やだよ……」
「俺、好きな奴いる……」
「なんで、どうしてそんな嘘つくの?」
「?」
柚飼一哉は、無表情を少しだけ驚かせて、サンドウィッチを食べながら、不愛想に鈴木碧の顔を見つめた。
鈴木碧は、美しいブルーに染められたショートの頭髪をかき上げて、溜息をついてみせた。
柚飼一哉は呆然としている。サンドウィッチを食べている口だけは咀嚼運動(そしゃくうんどう)を続けていた。
「私を傷つけたくないって、今でも思ってるんでしょ……。自分には、甲斐性(かいしょう)がないからって……。デートにも誘わないし、電話もしない、会話だって、自分からはしない……。それが何? それが柚飼くんじゃない」
「………」
「私、そんな柚飼くんを好きになったんだから……。あの時だって……、辛くなんて、なかった」
「泣いてたろ……。いつも」
「……泣いたからって、辛いってばかりじゃないよ」
「鈴木には、もっと他に、相応(ふさわ)しい奴がいる……、俺より優しい奴が……」
「また、そのセリフ……」
「ごめん。鈴木とは、付き合えない」
「………。はあ!」
鈴木碧は、笑顔になって、弁当を開いていく。
それは持参した小型の弁当箱であった。中身は、野菜カレーである。
「ドラマの中じゃあ、追いかけてくれるのにね……」
「………」
「いつも、いつだって現実の君は、ドラマなんかよりもずっと素敵で……、ドラマみたいには優しくなくて……。不愛想で、いつも退屈そうな子供みたいに、ぶっちょうづらしてて……。だけど、本当は、熱い奴でさ」
「………」
「好きになっちゃったんだから……。仕方ないんだよ、柚飼くん」
柚飼一哉は、食べ終えたサンドウィッチを喉仏(のどぼとけ)を動かして飲み込んで、テーブルのカラの弁当の箱の上でパン粉のついた手を掃(はら)った。
「柚飼くん」
柚飼一哉は、無垢な顔で、鈴木碧の事を見つめる。
「絶対好きにさせてみせる………。だって…、私……。君じゃなきゃ…、やなんだもん」
ふと涙を溜めた鈴木碧を見つめて、柚飼一哉は、ゆっくりとその視線を逸らした。
BGMもかかっていない楽屋には、しばし肌に痛い沈黙が流れた。
「齋藤飛鳥って、知ってるか」