冬の梟
「明日から北の方に出掛けるから」
突然研磨から告げられた言葉に赤葦は一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに頷いて使わせてもらっていた部屋や服の片付けをしていく。
「わかった。今までありがとう。御礼はまた今度しに来る」
「赤葦なにしてるの?」
「なに、って帰る支度だけど」
「赤葦も行くよ」
「……………え」
「もう赤葦の分も宿手配しちゃったから来てくれないと困る」
「え、や…流石にそれは」
「それに帰るって言うけど、何処に帰るの?」
その問いに即答できない赤葦は迷子のような顔をしていく。そんな赤葦に研磨は悪戯を思い付いたような笑みを向けた。
「クロがレンタカーで明日の朝に迎えにくるから、先ず初めに赤葦のアパートへ行こう。部屋の様子の確認とか、着替えとか必要でしょ。雪とか積もってるかも知れないから暖かい格好してね」
俺も支度したら寝るから、と言い置いて研磨は自室に行ってしまう。こちらの返事も聞かない強引さは彼には珍しいことだと赤葦は感じたが、今の赤葦にはそれぐらいが丁度いいのだろう。
゛何処に帰るの゛
その問いに一瞬浮かんだ面影を赤葦は敢えて思考から振り払っていく。
「さぁて!では北国へと向かいますか!」
まだ薄暗い早朝に赤葦のアパートへと着いた車を運転する黒尾は遠足気分でハンドルを北へと向けていく。
「孤爪、俺のアパートの扉に何か貼ってたけど、アレなに?」
「ちょっとした予告状」
ふふっと笑う研磨は非常に楽しそうだが、同時に薄ら寒いものも感じる表情だった。顔は笑っているのに目だけは笑ってない、そんな感じの笑みだ。赤葦は懸命にも深く考えず、その問答を続けることはしなかった。
車に揺られ、所々で休憩を挟み、気儘に当地の名物を堪能してはドライブを重ねて行けば夕方には目的地に着いていた。
意外と言っては失礼だが、黒尾の運転はとてもスムーズで快適そのものであった。孤爪も赤葦も気付いたらうたた寝をしている程に静かな運転だ。
着いた場所はまだ雪に埋め尽くされてはいなかったが、空は今にも重たい雪が舞い降りそうな厚い雲に覆われている。
゛この天気だと月は…見えないな゛
ぼんやりと空を見上げる赤葦の意識を研磨の声が呼び戻していく。
「赤葦っ、雪が降る前にチェックインを済ませるから荷物運んで」
「わかった。黒尾さんは?」
「運転中で出られなかった電話に出てる。少し時間掛かるから先に入ってよ。……寒すぎて無理」
そういえば何度も何度も着信を訴える携帯を黒尾は途中で切れて電源を落としていたことを思い出し赤葦は頷いた。
「孤爪は寒いの苦手そうなのに、なんで北国へ旅行に来たの?」
「こっちでしか入手出来ない限定アイテムがあるんだ………それと半分は嫌がらせかな」
後半は余り聞き取れなかったが、どうやらこれも彼の『仕事』の一環でもあるらしい。赤葦は研磨の荷物も持ちながら宿の入り口へと足を向けていく。
「あ〜コタツ最高…もう出たくない…」
猫は本当にコタツで丸くなるのだな、と赤葦は一人納得して荷物を部屋の片隅に寄せていく。部屋に備え付けられているコタツと同一化した研磨はもう顔しか布団から出てはおらず、黒尾が来たらまた小言が始まりそうだった。
甲斐甲斐しいまでに孤爪の世話を焼く黒尾の姿はどことなく自分と重なり、端から見たらこんな感じなのかと懐かしくさえ感じていた。
゛また、あの日常に戻れる日は来るのだろうか…゛
それとも一歩を踏み込んでしまった自分達には、もう無理だろうか。いやきっと無理だろう。そろそろ自分の中で答えを出すべきなのだ。孤爪や黒尾が何も聞かないことを良いことに結論を先延ばしにしている自覚はあった。
何もなかったかのように振る舞えば、あの人も敢えて掘り返さずに忘れてくれるかも知れない。それともいっそのこと、もう一度機会があればセフレにでもなるか。
でもどちらを選んでも赤葦の心は何も知らなかった頃には戻れない。いつかは木兎との間にも不和が生じてくるだろう。そうしたら自分はあの人の後輩としての立場も失うのだ。
それが、一番恐ろしかった。
今まで築いてきた全てが足元から崩れてゆき、何もない空間に落とされる夢を何度も見てきた。あれが現実にも起こるのかと思うと血の気が引いていく。
でも、それでもいつまでも立ち止まっている訳にはいかない。早く、答えを…。
震えそうになる指先を強く握り込んでいく赤葦の手に、温かいものが触れていく。ハッとなり振り向けば、いつの間にかコタツから抜け出した研磨が赤葦の手を握っていたのだ。
「孤爪?」
「まだ答えを出しちゃダメだよ」
「っっ!」
まるで赤葦の心を見透かしたような言葉に息を飲む。
「カードが揃ってからでも遅くはないから焦らない方がいい」
「カード?」
「こっちの話。今は暖まろう。それで今夜はここでご飯食べて、温泉入ってゆっくり寝る。明日は午前中に限定アイテムを取りに行ってから昼は名産店でご飯。夜は宿の温泉と肴で一息入れるよ」
言うが早いか研磨は赤葦をコタツに押し込み、自身もまたカタツムリのように引き籠もっていく。そうこうしている内に黒尾も部屋へと戻り、賑やかな雰囲気になってしまったので赤葦はそれ以上研磨に疑問を投げ掛けることは出来なかった。