冬の梟
そんな後ろ向きの考えが今さらに脳内を駆け巡る。例えその場しのぎだとしても、もう一度くらいは気兼ねのない後輩に戻れていた可能性に舌打ちしたくなった。
「じゃあ単刀直入に聞くけど、何でセフレなんて事になるんだよ」
黒尾の核心を突く言葉に赤葦は後退る。もし出入口が他にあったならば全力で逃げていただろう。まだ癒えてはいない傷口にナイフを突き立てられるような痛みと恐怖に赤葦は震えた。研磨に握られている掌の温かさだけが赤葦の意識を繋ぎ留めている。
「あれは俺が全部悪い」
「そりゃそうだろ。聞きたいのは何でそんな事を赤葦に言ったかってことだ」
「……赤葦…好きな人がいるって言ったんだ」
「ふぅん?」
「でも告白するつもりもないし、付き合う予定もないって言ってて。その人のことを好きでいるだけで充分幸せだって笑ってた」
「熱烈だねぇ」
「そん時の赤葦、少し哀しそうだったけど凄い幸せそうで。聞いてるこっちまで温かくなるような目をしてて…それを見てたら本当にその人のことが好きなんだ、って嫌になるくらい俺にも伝わって」
木兎は一度言葉を途切れさせ、お茶でもあるのだろうか。何かを飲む音が聞こえてきた後に茶器を下ろしていく音も連なる。
「その瞬間、どす黒い感情が自分の中で溢れるのを感じた。赤葦の話を聞いて、そのどす黒いヤツがチャンスだと囁いてきたのも覚えてる。赤葦が自分の恋を叶えるつもりがないなら、まだ勝機はあるんじゃないかって……心が手に入らないなら、身体だけでも先に俺のところへ残せばいいって思った」
心は後からゆっくり捕らえればいいと。
酔っていたとはいえ、そんな事を考え実際に行動へと移した自分自身を責める声音に黒尾は瞳を細めていく。
「…何でそんなに赤葦に執着してんのよ」
「赤葦のことが好きだからに決まってる」
迷いもなく言い切る木兎に黒尾は口許に笑みを這わせていった。
「だからセフレね。いつから好きになってたんだ?」
「気付いたら、って感じだな。最初は仲の良い後輩を可愛がる延長の気持ちかと思っていたけど、俺の知らない赤葦がいるのも嫌だし、俺じゃないヤツと戯れる赤葦を見たらプチッときそうだったし、赤葦が笑ってたら他はもう何でもいいやって思った時に『あ、俺って赤葦のことが好きなんだな』って確信した」
「なのに泣かせてどうすんだよ」
「うぐぐぐっ、それに関してはっ言い訳のしようもないっ」
「仮に赤葦に会えたとして、何を言うつもりだ?」
「謝りたい…許してくれなくてもいいから、謝りたい。傷付けて、怖がらせて、痛い思いさせてゴメンって言いたい。赤葦が全部無かったことにしたいって言うなら…本当に忘れることは無理だけど、何とかしてみせるし。もう顔も見たくないって言うなら、頑張る。でも…」
「でも?」
「多分この先、俺が赤葦のこと好きな気持ちはずっと変わらないから、会えなくても遠くにいても好きでいることは…許して欲しい。それも俺の我が儘なのは解ってるけどな」
木兎の偽りのない言葉に黒尾はもう一度口の中だけで「熱烈だねぇ」と呟いた。そこにはもう人を揶揄するような笑みも、何かを試すような眼差しも浮かんではいなかった。真っ直ぐで無器用な友人を見守るものに変わっていることに木兎はまだ気付かない。
「俺…赤葦に会えるか?」
木兎が恐る恐る黒尾に尋ねるが返答は芳しくはなかった。
「俺に決定権はないのよ。依頼人の所にお前の話を持ってって、そこでどうするか決めたら…だな」
「ううぅっ」
「だぁもう泣くな!とりあえずのお前さんの気持ちはちゃんと伝えとく!ほら飯食いに行くぞ。ここは軽食メインの店だからお前には物足りないと思うぜ。焼き肉の予約しといてやったからそっちで腹を満たすぞ。腹が減ってはなんとやらだ」
しょぼくれるミミズクを引っ張りながら黒尾は部屋を出ていく。二人の話し声と足音が完全に遠ざかったのを澄ました耳で確認した研磨は傍らの男を見上げていく。
「赤葦…顔色が青くて赤いけど大丈夫?」
研磨が声を掛けると同時に赤葦は糸が切れた人形のように床へと膝から崩れ落ちていった。
「待っ………て、え…今、俺、寝てた?いつの間に」
「気持ちは解るけど勝手に夢落ちにしないで」
余りの状況に現実逃避を始めた赤葦を研磨は落ち着いた声音で突っ込んでいく。座敷にへたりこむ赤葦の横に膝をついた研磨は友人の顔を覗いた。
「これでカードは揃ったよ。あとは赤葦次第」
「俺、次第?」
「そう。聞かなかったことにしてもいいし、このまま会わないで帰ってもいい。好きなだけ俺の家に居ても構わない。実家に戻ってもいいと思う。…でも赤葦が望むなら、木兎さんと話をしてもいいんじゃない?全部赤葦が好きに選んで」
木兎は「忘れて欲しいなら、そうする」と明言もしていた。本当に記憶を変えることは出来ないから表面上は、だろうがそれでも以前の関係に近い所までは戻れる。そこからは時間がゆっくりと解決していく筈だ。
いま、全部のカードが赤葦の手元にある。
どのカードを選び、どの結果を望むかは赤葦が決めていいのだ。
カードを揃え終え、それを惜しみ無く赤葦に差し出す研磨を見て視界が滲むのを止められなかった。瞳の奥が、熱い。身体の芯が、震える。
先ずは目の前の友人に御礼を言うべきなのに、口から突いてでた言葉は違っていた。
「木兎、さんっ」
ずっと音にすることを堪えていた名前を、強張る声が呼んでしまう。求めてしまう。止まっていた時間が再び動き出すように。
赤葦のそんな様子を見て研磨は吐息を零してゆく。
ギリギリで間に合った…きっとこれ以上の時間が経てば赤葦の心が保たかなかったと研磨は考えていた。助けたあの日を最後に赤葦は笑うことも泣くこともせず、ずっと心此処に在らずと言った風情で見ていてとても危うかったのだ。日を追うごとに少しずつ感情を消していく様子は彼の心の傷の深さを物語っていた。赤葦が自分の手で感情の全てを消してしまう前に片を付ける必要がある。だから研磨は多少の強引さをも解っていながら性急に事を決行したのだ。
感情を露にしていく赤葦に目許を弛めた研磨の鼓膜を、聞き覚えのある喧騒が叩いていく。