#14
さきほどの来客が歩き、角を曲がり、完全に姿が見えなくなってゆくのを、臨也はじいと見下ろしていた。右手に掴んでいるカップは口付けられることはなく、うっすらとただよう湯気が窓ガラスを曇らせている。それに気付いた彼は、しばらくそれを見つめたあとに、そうと触れる。左手によってなぞられたハートマークは少々いびつで、歪んでいて、それが臨也にはおかしくてたまらない。
最初はちいさなため息ほどであったそれが、だんだんと堪えきれなくなり、最後にははっきりとした笑い声となって紅茶の表面をふるわせた。多少の罪悪感もあってか、何となくその場を動かずにいた波江が、首だけを彼の方に向け彼を眺める。その訝しげな、不気味な深海魚でも見ているような視線を臨也なんてことでもないように受け止める。
「いや、ごめんごめん。ちょっと思い出し笑い」
「…帰っていいかしら」
波江は冷ややかに言う。彼のそれらが気に入らない。客観性をとうの昔に自室のくずかごへ放ってしまったかのような、その態度を波江は嫌悪する。彼女だって弟を含まない客観、なんて空気と同然だ、と考えているのだけれど、常識とは人の数ほどあるものだ。
「別にいいけど。さっきまでおもちゃの銃をつきつけられてた不機嫌な波江さん」
持て余していたカップをデスクの上に置き、臨也は言う。
「こんなところまで乗り込んで来られちゃって、ねえ」
にっこりと綺麗に笑う、その顔を波江は視界に入れない。うつむき足下を眺める彼女の、視界の端で影がゆらゆらと動く。足音は彼女を過ぎ去り、キッチンへと入ってゆく。ふと顔を上げてみると、ぬるいであろう紅茶は変わらずそこにしんと張っていた。
「まあでも、面白いものがみれて良かったよ。うん。なかなかに可愛かったんじゃないかなあ。あくまで客観的な意見だけれどね」
こぽこぽという水音と共に聞こえてくる声に、彼女は首をかしげるけれど、次第に彼が誰について話しているのか理解してしまい、睨む相手はけれど視界には入らない。もし自分の手の中になにかしら武器があって、彼が目の前に立っていたのなら、ためらいもなくその道具を使っていただろう。あいにく彼女の手にはなにも存在せず、美しく伸びるながい指が罪に染まることはない。それがいいことなのかどうか、判断できるのはきっと自分ではなく弟であることを、波江はうんと幼い頃から知っている。
「自覚してると思うけど、改めて言わせてもらうわ」
あなたって最低。キッチンから出てきた彼へそう吐き捨てると、ひどいなあ波江さん、と言葉の意味とはさかさまのずいぶん嬉しそうな声が返ってくる。
臨也は波江の隣に立つと、彼女の前に煎れたての紅茶をことりと置く。桃色の小花が散るカップとソーサーは、秘書である彼女でさえ見たことがないものであった。アプリコットと砂糖の、あまったるい匂いが彼女を包む。
たとえこれを飲み干したとして、あるい口を付けずに冷めて捨てられてゆくとしても、彼は何の感情も抱かないのだろう。わかりきった事実に、けれど彼女も揺れることはなく、ただ喉が乾いていたので、静かにそのあたたかなカップへ手をのばす。
きまぐれ/臨也と波江
(偽の銃におどろく波江さんをかわいいなあ、といろんな意味で思った最低な臨也くん)