特別への一歩
ネツァワルピリがちらりとやや高い位置から視線を落とし、ならばと低い声音で続けた。
「ガウェイン殿、大切な人を思い浮かべてほしい」
「大切?」
「うむ。家族や恋人、守りたいと思う御仁である」
…家族といえば姉がひとりいるが、フロレンスは俺が守るまでもなく十分な実力を備えている。
そして両親は他界しており、俺には恋人などいない。
思わしくないこちらの反応を見かねてか、ネツァワルピリは言葉を繋げた。
「普段共に過ごすことが多い相手や、独り占めしたいと思う相手、話していて心地良い相手はどうであろう」
「普段、共に…」
依頼や買い出しは、扱う属性が同じである者と同行することが多い。特に女性が多い風属性では男性の顔ぶれは限られており、十天衆であるシエテは艇を空けることも多分にあるため、ネツァワルピリといる時間が圧倒的に占めている。
仮面越しに、そっと相手を盗み見る。
…こんな屈強な鷲の王を独り占めしたいとは、とても思わない。
思わないが、誰とも喋らなければいいのに、と考えたことは記憶に新しい。
ガウェインの脳内に何者かが浮かんだと見たのか、ネツァワルピリが続ける。
「その者がたとえば、足を挫いたとしよう」
「…挫かんな」
「むっ…?」
人の温かみについて流暢に説こうとしていたネツァワルピリだったが、ぼそりと呟かれたこちらのひと言により腰を折られたのか、言葉をぶち切った。
が、切り替えの早さは流石のもので、気を取り直してたとえを変える。
「…では、心を痛めて泣いていたとしよう」
「泣いたりせん」
「お、落ち込んで」
「それもない」
次々と否定していくと、常にどこか余裕を残した豪放磊落な王もぐっと口籠った。
そして歩調を緩め、なんとも言えない至極難しそうな顔でこちらに視線を寄越す。
「…し、心身ともに強靭な御仁であるな」
「…それには違いない」
お前のことだからな、とは口が裂けても言えないが。
並んで戦線に立つときはこれ以上ないほどの信頼と安定感をもたらしてくれる。まあ身を守ることには無頓着で、馬鹿力ですべてを解決しようとするのが難点とも言えるが、おそらくグランもそこを見越して俺と奴を組ませることが多いのだろう。
そんな頼りになる男が困り果てたように苦い顔をしてまで、俺に人の温かみのなんたるかを教えようとしている様が可笑しく思えて、つい吹き出すように笑ってしまった。
「ッ…!」
直後、予備動作なしにネツァワルピリの手が伸び、頬を両手で挟み込まれた。
一拍遅れて、支えがなくなり自由になった荷車がやや前方に傾く。
しかしそんなことは気にも留めず、奴の顔が無遠慮に鼻先まで近付いてきた。
「な、なん、だ…」
鎧越しに触れられることはこれまでも稀にあったが、肌に直接その熱を感じたことはなくて。
唯一露出しているそこが、みるみるうちに熱を持っていく。
仮面があったことに感謝したことなどなかったが、今だけは良かったと思う。己がどれほど間の抜けた面をしているかなど考えたくもない。
穴があくのではというほどまじまじと見つめられたのは、実際には数秒だったのだろうが体感では果てしなく長い時間で。
ついに居た堪れなくなり、相手の手をはたき落とした。
「い、いきなりなんなんだ、阿呆!」
次いでネツァワルピリの額を籠手に包まれた手でぐいと目一杯まで遠ざける。
少しすると、恐いほど真剣だった顔つきをくしゃりと幼く破顔させ、奴は嬉しそうに言った。
「ガウェイン殿……お主、笑うと可愛いのだな」
「は…」
口から意味もなく音が漏れ、それきり固まる。
身体は一切の挙動を放棄したが思考は大忙しだ。大忙しな割に何も考えていないという矛盾が生じ、わけもわからず全身の血液循環が活性化。ぶわりと体温は急上昇し脳みそも沸騰した。
「はぁぁぁぁ!!!貴様貴様貴様っ、意味不明も大概にしろ!!この顔でそうはならないだろうが!!」
「い、いや落ち着くのだ、ガウェイン殿。我も今気付いたばかりで困惑しているのだ」
「俺が!一番!困惑しているわ馬鹿が!!」
「そうではないっ、お主が愛いことではなく、我が」
「愛いって言うな!!」
「す、すまぬ。しかしそうではなく」
「そうだ貴様どうせあれだろうっ、町娘に言ってまわっている睦言と同じあれだなっ?」
「ガウェイン殿」
「喧しい!俺にその手は通用せ」
「落ち着かんか!」
何かを早口に捲し立てていないと死んでしまう病気にでもかかったようなガウェインの脳天に、遠慮のない拳骨が降ってきた。
沸騰していた脳みそは鷲王の一撃に直接揺さぶられたことで昏倒。
ガウェインの身体はそのまま地に崩れ落ちた。
「ガッ、ガウェイン殿!?すまぬ、大事ないかっ」
拳骨を落とした張本人が慌てて声をかけるが、意識を失った青年からはなんの反応も得られない。
自身も動揺していたとはいえ力加減を誤ったか、とネツァワルピリは背中に冷たいものを感じつつ、青年を抱え上げて荷車に載せるなり急いで騎空艇へと向かった。