天空天河 八
十三 安息
長蘇を靖王府に連れ帰る。
抱き上げたまま、馬を降り、王府でも最奥の、靖王の書房に向かった。
━━もう、眠ってしまっか、、、。━━
長蘇は安心したように、靖王に身体をあずけ、穏やかな顔で、目を閉じている。
書房の寝台の上に、上半身を抱えたままで長蘇を一旦置き、片手で器用に寝具を広げた。
その上に、改めて長蘇を寝かせた。
「、、っ、、、ぅ、、、。」
身体を伸ばしてやると、長蘇が呻いた。
「、、ぁ、、痛かったか?。」
長蘇が、薄っすらと瞼を開ける。
「傷の手当てをする。少し痛いかも知れないが。」
長蘇は微笑んだ。
『宜しく頼む』という、長蘇の返答だ。
そしてまた、長蘇の瞼は閉じられ、寝ている様にも見えた。
書房に、靖王府の配下が来て、盥に湯と、盆に乗せた治療薬と清潔な布を運んできた。
そして他に二人が、火を熾(おこ)した火鉢を、書房の中に入れた。
靖王は、長蘇を包んだ自分の外套を外し、長蘇の衣を開く。
肌着の上まで、血が滲んでいた。
肌着を開けると、傷に当てた手巾は半分以上、血が染み込んで、重くなっていた。
細心の注意で、長蘇を腕だけで抱いて運んだが、馬の上ではやはり幾らか揺れて、出血してしまったのだろう。
傷の様子を見ながら、そっと手巾を外すと、幸いにも、血は殆ど止まっていた。
血止めの薬は、必要無さそうだ。
それにしても、ぎょっとする光景だった。
胸の傷口から、触手が伸びるように、黒い痣が幾つも伸びている。
『魔』が身体を巡る血管のように、腹部にかけて張り巡っていた。
傷の周囲を湯で清めるが、黒い痣は、幾ら拭いても、消える事は無かった。
傷口が広がって、せっかく止まった血が吹き出しそうで、何よりも、長蘇の薄い皮膚が痛みそうで、力任せにごしごしと拭くわけにはいかない。
靖王は、痣を消すのを諦めて、治療を始めた。
長蘇の傷口に、強い酒をそっと垂らすと、呻いて、身体を(よじ)ろうとした。
「痛いだろうが、化膿を防ぐ為だ。
耐えろ。」
薄く目を開け、長蘇は靖王を睨んだ。
「念の為に、もう少しだけ、だ、、、いいか?。」
同意を求めて、靖王がそう言うと、長蘇は目を閉じて、奥歯に少し、力を入れたのが分かる。
靖王は先程と同じくらいを、傷口に垂らす。
「、、、、ッ。」
長蘇が耐えて、そして大きく息を吐いた。
長蘇の身体はもう、腕一つ、動かせない身体なのだが、それでも、幾らか力を入れて、耐えていたのが緩んだ。
靖王もまた、ふぅと、大きく息を吐き、傷口に清潔な布を当て、包帯を巻いた。
長蘇の顔を見れば、疲労困憊で、長蘇の身体から、苦しみが滲み出ている気がして、湯で拭いてやらねば気が済まなかった。
━━懸鏡司で夏江から、何をされたのかは分からぬが。
離れるべきでは無かった。
後がどうなろうと、せめて金陵から出せば良かった。━━
顔を拭き、首を拭いて、背中や二の腕、尻部、太股、順に熱い湯に浸し、絞った布で拭いてやる。
人には、余り汚れている様には見えぬかも知れないが。
靖王は、拭く事で、長蘇に付いた穢れを落としていく、ある意味、儀式めいた気持ちだったのだ。
身体の傷を確認するように、長蘇の身体を清めていった。
胸と、手首足首以外には、傷や内出血は無い。
夏江に鞭打たれたり、拷問にかけられた訳ではなく、その点は安堵した。
身体を拭きながら、ぎょっとしたのは、胸だけでは無い。
長蘇の爪は、全て黒くなった。
胸同様に、拭いても取れず、盥に手を入れ、洗ってやっても変わらなかった。
━━どうやっても、取れぬのか、、、。━━
靖王は、長蘇を穢された気持ちになり、じわりと涙が出るほど、長蘇を懸鏡司にやったことを後悔していた。
━━せめて怪我だけでも治さねば。━━
枷のせいで出来た、手首と足首の痣や血の滲みを、痛々しく思い、そっと薬を塗り、包帯で保護してやる。
熱い湯を使った為か、長蘇の身体の血が巡り始めたのだろう。
相変わらず白い玉のような長蘇の肌だが、硬い玉そのものだった肌が柔らかさを持ち、少し人間らしさが蘇ってきた。
靖王は、長蘇の身体を拭きながら、自分の肌着に着替えさせた。
━━私はそんなに、体躯の大きい方ではないのだが、、、。
私の肌着を着ても、小殊の身体は細く小さく見えて、、、。━━
長蘇の身体の細さは分かっていたが、改めて見ると、今にも息絶えてしまいそうな、儚さを感じた。
━━この身体で、あの得体の知れぬ『魔』と戦っているのか。━━
知音が、こんな運命を背負ってしまった不憫さを悲しんだ。
そして、こんな病弱な身体ではなく、健康的な林殊の身体であったなら、と嘆いたが、今更変えられぬのは分かっている。
成長して、逞しくなった林殊を思い浮かべる一方で、嘗て共に遊んだ、少年の頃を思い出していた。
━━鎧を着た小殊は、目の前に持て余す程の障壁が現れれば、一瞬、たじろぐのだ。
ほんの一瞬、側にいる私にしか分からぬ程の、僅かな瞬間。
だがそれは、直ぐに闘志に変わる。
連戦錬磨の狡猾な策士をも大胆に凌駕し、未来を画(えが)き、二重三重の緻密な作戦を立てたのだ。
皆に役割を与え、皆で窮地を乗り越えた。
赤羽営は、小殊と一心同体の強さを誇っていた。
だが、今はどうなのだ。
小殊はたった一人で戦っている。
確かに、、、、確かに私は、小殊の役には立っているのだろう。
だが、、、、だが、、、、。
、、、まるで小殊は全てを自分で背負うが如く。
、、、、私は、、、、なんて無力な、、、、。━━
靖王は、長蘇の手を自分の頬に当て、それを自分の掌で包んだ。
長蘇の冷たい掌が、靖王の、熱を持った頬を冷やす。
靖王の眼は潤み、熱をもっているが、長蘇の冷たい掌でも、涙を止めることは出来ずに。
瞼を閉じた瞬間、頬へと零れた。
悔しい、と言うよりも、精一杯、力を注いでも、長蘇を守りきれなかった事実に、只々、虚しさが心を占めた。
━━小殊を守りたい、それだけの事が、、、。
何故こんなにも難しい。━━
靖王の、掌の中の長蘇の指がぴくり動いた。
靖王が目を開けると、横たわる長蘇の目が少し微笑んでいた。
そしてゆっくりと親指が動き、靖王の涙を拭いた。
長蘇は僅かに口を動かして、何か言っている。
「え?、、、何と?、、、。」
な き む し め
「なッ、、、!、、、、。」
笑みを浮かべながら、声の出ない長蘇の口が、そう言っていた。
━━私を怒らせて茶化したくて、そんな事を、、、、。
いつもそうだった。
小殊は、空気が重くなると、こんな風に、私に悪態をついて、怒らせて、、、そして、笑わせて、和ませてしまう。━━
靖王は、林殊との記憶が溢れ出して、止めることができない。
━━そうだ、いつも、、、いつも、、、小殊は、私に優しい悪態をつく、、、。
、、、怒らせて、笑わせてそして、、、。
最後には私を、丸ごと包んでしまう。━━
「、、、ばか小殊!。」
止まらない涙に抵抗する様に、靖王が言った。