いのちみじかし 中編
「お騒がせしてすまなかった! 昼寝の邪魔をしてしまった虎にも詫びを届けさせよう! それで勘弁していただきたい!」
「ふざけるなっ、おい! 降りてこい!」
怒鳴る警官には申し訳ないが、それよりも。
視線を向けてきた煉獄の、どこかいたずらっ子めいた笑顔に、義勇の胸は高鳴った。苦もなく地面に降り立って、なお走る。手はつないだまま。
「二度あることは三度あるというが、なんともしまらん結末になってしまったな! そういえば熊も見損ねた! せっかく君とこられたのに堪能しきれず終わるとは、残念だ!」
「……でも、虎は見られた。煉獄の炎虎も、いつか見たい。お前の技は、きっと、すごくきれいだろうから」
願望が率直に口をついたのは、胸を騒がすときめきのせいだろう。冷静にと念じても、やはり平静さを欠いている。
いらぬことを言ったと、義勇が内心焦りながら謝罪を口にするより早く、唐突に煉獄が立ち止まった。柱である義勇であればこそ、急停止に体勢を崩すこともなかったが、まださほど花屋敷から離れたわけでもないのに、なぜ煉獄は急に足を止めたのだろう。
落胆まじりの困惑は、一瞬だ。いや、消え失せたのは落胆だけで、困惑はつづいている。思考が真っ白になるほどに。
なんともなれば、義勇の体は突然、煉獄のたくましい腕に抱きこまれていたからだ。
ギュウッと強く掻き抱く腕は太く、力はつぶされんばかりに強い。鍛え上げている義勇でさえ痛みや苦しさを覚えるほどだ。華奢な女性では悲鳴をあげるかもしれない。
自分は男でよかった。煉獄に抱きしめられても骨折することはあるまいと、的はずれな安堵が浮かんだと同時に、遅ればせながら義勇の体が硬直した。
そうだ、この状況を言い表すならまさしく抱きしめられているの一言ではないか。今、自分は煉獄に骨も折れよとばかりに抱きしめられているのだ。強く、強く、ただ強く。たおやかな女性ではなく、自分こそが、煉獄に抱きしめられている。
誰かに抱きしめられたのも、初めてだ。
記憶もおぼろな父や母はもちろん、姉にだって、抱っこされたことはある。狭霧山でも、鍛錬で疲れ果てて倒れ込んだ義勇や錆兎を、鱗滝が抱き上げ連れ帰ってくれたこともあった。大好きと笑いあい、錆兎と友情を分かちあう抱擁だってしていた。
けれど、こんなにも力のかぎり強く、離すまいという意思を疑うべくもない熱い抱擁など、義勇は誰からもされたことがない。
これは、幼子に対するものとは違う。家族や友人への親愛の情ではない、深く熱い恋慕による抱擁だ。
「煉獄……」
「俺は、少しは期待してもいいんだろうか。君に好意を持たれていると、思ってもいいのか」
煉獄の声は、かすれていた。湧き上がる感情を懸命に押し殺しているのだと、義勇にもありありと感じられる。
義勇は人の心の機微にうとい……らしい。義勇自身は自覚していなかったけれど、今日ばかりは認めざるをえなかった。
体調など見た目でもうかがい知れることならば気づきもするが、傍目に出さぬ内面の葛藤やらは、人に指摘されて初めて思い至ることのほうが多かった。胡蝶には鈍感だとか天然ボケだとからかわれたりもする。だからだろう。煉獄に恋情を向けられているなど、今日まで思いもしなかった。
けれど今、声音ひとつからですら、煉獄の想いの丈がはっきりとわかる。それぐらい、今の煉獄は感情を抑えきれずにいるのだろう。
つまりは、それだけ義勇への恋慕は深いということだ。
これほどまでに想われているのに、よくもまぁ気づかずいたものだ。胡蝶に鈍感だと笑われても、もう二度と反論などできやしない。義勇の頬がまた、ジワリと赤らんでいった。
煉獄は、人の感情に敏い質《たち》であるように思う。人の心に寄り添うのがうまい。そのうえで問答無用な押しの強さを発揮したりするから、義勇は今まで何度も面食らいもした。内心で盛大に慌てたのも一度や二度ではない。
そういう者は義勇以外にも多いとみえる。たまに聞こえてくる下級隊士たちの会話にあがる煉獄は、どこを見ているのかわからないだとか、ズレてるだとか苦笑される場面も多いようだ。
煉獄は決断の速さも義勇に負けず劣らず早い。逆に言えば、結論を出すまでが早すぎるのだろう。押しの強さはそのせいかもしれないと、義勇は少しだけ笑いたくなった。
不快だと思ったことはないが、合わないなと思う面はいくつもある。大きすぎる声や押しの強さに、辟易する場面だっていくらもあった。それでも、嫌悪や苦手意識だのといった負の感情を、煉獄に向けて懐《いだ》いたことは、一度もない。
困ったり焦ったりはしても、避けたいなど思いもしなかったのだ。むしろ、みなの輪から外れてポツンと立つ自分に気づき、煉獄が笑いかけてくれるのを、待ち望んでいた節がある。つまりはきっと、そういうことなのだろう。
なるほど。俺は本当に鈍感らしい。煉獄の想いどころか、自分の恋心にすら気づかずいたのだから、呆れてしまう。それとも、人と関わることへの怯えが、気づくのを無意識にためらわせたのか。
いずれにしても、柱だなどと、とうてい名乗れぬ未熟な男であるのに違いはなかろう。
忸怩として内省するものの、胸のときめきはいまだやまない。煉獄の腕の強さやぬくもり、耳元近くで聞こえる息遣い。それらすべてに義勇は心乱され続けている。
あたりに人の気配はない。空へとそびえる凌雲閣《りょううんかく》が間近に見えた。階下は私娼窟がひしめく不穏な界隈だという話だが、昼日中の今はごく普通の観光客が行き交っているはずである。だが二人がいるあたりには、呑気にそぞろ歩く者はいないようだ。離れるきっかけがつかめない。
三度と言わず、今日は何度も外野によって空気が変わってきたものだが、今この場においては、二人に驚く親子や邪魔だと怒鳴る者どころか、猫の子一匹通りかかる気配はなかった。どうあっても義勇自身が決断しなければ、煉獄の抱擁が解かれることはないだろう。
離してほしいとは思わないが、離れるべきだと思いはする。抱きしめ返したいと願う腕を、義勇は必死にこらえた。
もしもこの腕を煉獄の背に回したのなら、どうなるのだろう。恋など鬼狩りには無用だ。常に心を凪いだ状態にと教えられ、そうあるべく努力してきた。それなのに恋はこんなにもたやすく心を乱し、決断をためらわせる。
「君が、好きだ。心の底から、ただひとり、君だけを恋い慕っている」
「煉獄、俺は……」
ささやきは熱い。酩酊した如くに頭の芯が鈍くしびれる。腕が、恋しい人を抱きしめたいとうずく。それでも。
「おまえに好かれるような、男ではない。いたらぬところばかりだ」
好ましい人柄の者など、いくらでもいる。胡蝶や甘露寺はもちろんのこと、性別を問わぬというのであれば不死川たちだってそうだ。秀でた容貌ならば宇髄だって当てはまる。陰気臭い自分より、よっぽど煉獄には似合いだ。尊敬など、柱どころか隊士を名乗る資格すら持ち合わせぬ自分には、分不相応な買いかぶりにすぎない。
作品名:いのちみじかし 中編 作家名:オバ/OBA