いのちみじかし 中編
途絶えると、義勇が言葉をつなぐのを阻むように、煉獄の手が肩をつかみグイッと押しやってきた。抱擁が解かれた背中や胸が、少し寒い。刹那の落胆を自嘲する間もなかった。まっこうから見据えてくる煉獄の顔は、薄く笑んでいた。
「柱の存在が必要なのは、鬼がいるからだ」
「だから」
決して途絶えさせてはいけないと、煉獄だってわかっているだろうに。かすかに眉を寄せた義勇を見つめる煉獄の目は、わずかに細められたまま、強い光を放っていた。
「俺たちが無惨を斃せば、次の柱は必要ない」
虚を突かれ、義勇は息を呑んだ。
無惨を斃す。それこそが鬼殺隊の悲願であり存在意義だ。だから義勇も、仮初だと思いながらも柱として鬼を狩っている。早く本当の水柱をと願いながら、宿願を果たすためにと。
次代の柱を望むのは、自分では果たせぬとの諦めが心にあるからだろう。裏を返せば、自分の責任を他者に押し付けるのと変わらない。動揺が一滴《ひとしずく》の汗となって義勇の背を伝う。だが、それでも。
「……百年だ」
柱でさえ上弦の鬼すら斃せずにいる。下弦の鬼と上弦の鬼の差は、それほどまでに大きい。ましてや無惨ともなれば、いったいいかほどの強さなのか。柱全員で臨んでも、全滅の憂き目に遭う可能性は否めない。
錆兎だって、駄目かもしれないのに。
彼の死は刀が折れたせいだというのは知っている。でなければ隊士ならぬ当時でさえ、錆兎が藤襲山に封じられた鬼などに敗れるはずがない。
もちろん、今の自分が同じ状況に置かれても、下弦にもおよばぬ鬼に後《おく》れを取りはしないと言い切れる。それだけの経験を義勇は積んできた。だが錆兎はまだ隊士にすらなっていなかったのだ。柱にまで上りつめた自分と、あのころの錆兎を比べるなど、愚にもつかない。
それでも、もしもと考えてしまうのを、義勇はいまだにやめられずにいる。亡くした子の年を数えるように、錆兎ならと繰り返してしまうのだ。今この場にあっても。
きっと錆兎ならば、煉獄と同じことを言えただろう。俺が無惨を斃せば済む話だと笑うだろう。自分とは違う。
義勇はさらに強く拳を握りしめた。痛むのは爪が食い込む手のひらではなく、罪悪感と喪失感にきしむ胸だ。
後悔と罪の意識は消えない。それでも義勇は刀を握り、夜を駆ける。自分と同じ思いをする人を一人でも減らしたいと、刀を振るい続けている。
鬼となった妹をかばい、必死に自分に立ち向かってきた炭治郎の姿を、義勇はふと思い浮かべた。
狭霧山へ行けとの義勇の言葉に従い、鬼殺の道を愚直に歩む炭治郎と、鬼でありながらも兄を助け人を守っていると報告を受けた禰豆子。兄妹の運命を定めたのは義勇だ。
二人の家族が鬼に惨殺されたのも、禰豆子が鬼になったことも、運命と言ってしまえばそれまでだろう。だが、過酷な道をゆけと指し示したのは、義勇にほかならない。禰豆子を見逃し炭治郎を鱗滝の元へ向かわせたあの日から、義勇と兄妹はある意味、運命共同体となったのだ。
この少年なら、水柱を継げるかもしれない。この少女ならば、鬼となっても人を襲うことなく、元に戻れる可能性があるのではないだろうか。炭治郎はともかく、禰豆子に対しての期待は、義勇自身薄いとしか言いようがない。それでも願った。この二人ならばと。
だが。
炭治郎に恨まれても、一生消えぬ傷を心に負わせようとも、禰豆子を斬るべきだったかもしれない。少なくとも、炭治郎が鬼に殺される可能性は格段に減る。
あの子を殺すのは、鬼ではない。俺だ。
思えども、もしもの話に意味はない。義勇は期待し、炭治郎は自分の意志で鬼殺の道をひた走っている。そのときがくれば、義勇の後悔と慙愧の念が増えるだけだ。
『命は取り返しがつかない』
柱合会議で煉獄が言ったとおりだ。責任を取ると己の腹を切ったところで、食われた人が生き返るはずもなく、家族を奪われた人達の悲しみや怒りが晴れることもない。
なにかが変わる予感がした。この子達なら変えてくれるのではないかと思った。所詮は勝手な思い込みだ。いらぬ期待を押し付けたに過ぎない。
百年ものあいだ、柱でさえ誰一人として上弦の鬼を斃したことがないのだ。無惨に鬼殺隊の刃が届く日など、いったいいつになるのか見当もつかない。
「百年駄目だったから明日も駄目だと? 俺はそうは思わない」
煉獄はどこまでも不敵な笑みを崩さない。炭治郎が義勇に無責任な期待を押しつけられたのと同じく、煉獄だって、炎柱を継ぐ家系という責任を生まれながらに背負わされているだろうに、なぜこんなふうに笑えるのだろう。
「俺の弟は、剣の才能が乏しい」
唐突な話題転換に、義勇の目がパチリとまばたく。煉獄の目はまだ義勇をまっすぐ見据えたままだが、瞳の奥の焔がわずかに揺らいだ気がした。
「俺だって、父上から才能なんかない、鬼殺隊などやめろと、何度も言われている」
「馬鹿なっ!」
思わず反論の意を口にした義勇を、同じくパチンと一つまばたき見つめ、煉獄の顔が喜びの色をたたえた。
苦笑めいた笑みを浮かべた煉獄は、深く一つ息を吸い、静かに吐き出し終えたときには、憂いなどどこにもない顔で朗らかに笑った。
「否定してくれるのか。君に認められるのはうれしいな!」
煉獄は明るく笑っている。けれど、細められた煉獄の目をじっと見返した義勇は、きつく眉を寄せた。
目は心の窓とはうまいことを言うものだ。表情や言葉に出さずとも、金と赤の瞳の奥に煉獄の抱えた葛藤や苦悩が見える。
勘違いや気のせいだと、目をそらすことはできなかった。したくない。義勇はグッと唇を引き結ぶ。勘違いだろうと自分は今、煉獄の心の傷に触れているのかもしれないのだ。恋しくてたまらぬ人が抱えた傷に。
とはいえ、恩人である先代がそんなことを言うとは、義勇にしてみれば信じがたい。誤解ではないのかと問いたくもなる。だが、信じたくないだけだと、義勇もわかっていた。いずれにせよ、煉獄が父の言葉に苦悩したのは間違いないだろう。
思考は数瞬のうちに完結する。判断力と決断力は鬼狩りにとって必要不可欠な重要要素だ。もしかしたら、煉獄の悲哀への思いやりや、恋しい人を慰撫したい欲求が、常識を訴える理性を上回っただけかもしれない。静かに煉獄の頭に伸ばした義勇の手に、迷いはなかった。
「痛いの痛いの、遠いお山に飛んでいけ」
在りし日の姉が、そう言って義勇をなでてくれたときのようなやわらかな声音には、ならなかった。自分の耳にもそっけなく無愛想なつぶやきにしか聞こえぬ声だ。金色の頭を撫でる手だってぎこちない。
意外と柔らかいんだな。手のひらに感じる髪の手触りに、そんなズレた感想が浮かんだ。
煉獄はポカンとしている。義勇の行動に面食らい、はからずも自失しているのがはっきりと伝わってくる。皿のように大きく見開かれた目に、もう悲哀は見えない。してやったりだ。悲しい目など煉獄にはしてほしくない。
作品名:いのちみじかし 中編 作家名:オバ/OBA