天空天河 九
今、長蘇の手が触れた途端に、懸鏡司で見た夏江の丸薬の様に禍々しい色に、この真珠が変わってしまったら、、と。
自分の行動も、靖王の心も、全てが台無しになる様で、長蘇の覚悟は決まらない。
「小殊、怖くはない。
これ程に大梁の民や大梁の未来を案じこれ程にその身すら犠牲にする者が、本当に『魔』である筈がない。
この真白く輝く真珠こそ、邪悪さなぞ少しも無いお前の心そのものなのに。」
長蘇は、今ここに来るまでに、様々な者と対峙をした。
陥れ、踏み台にした者もいる。
見捨てた者もいる。
善処はしてきたつもりだったが、救えなかった者も数多い。
──景琰は知らぬだろうが、、私は、、、。
江湖に身を置く間、良い事だけをしてきた訳では無い。
私は多くを背負い、毅然と強くあろうとした。
不可避の事態ではあったが、私の仁義に背く事もあったのだ。
、、、、だが、景琰にそう言われると、私の心の重石が軽くなる。──
「ぁッ、、、景琰ッッ!!。」
長蘇が考え込んでいる隙をみて、靖王が長蘇の手を開き真珠を握らせた。
「、、、景琰、、、。」
──待ってくれ、、、。──
覚悟が決まらずにぐずぐずしていた長蘇に、靖王は追い討ちをかけた。
長蘇は少し情けない顔になる。
『絶対に大丈夫だ』
靖王の眼差しがそう語っている。
長蘇の鼓動が速くなっている。
長蘇は極力、身体の中の『魔』を動かさぬ様に触らぬ様に。
だが、長蘇には真珠が黒く染まる事が容易に想像でき、頭から離れない。。
──私のこんな暗澹たる予感は、外れた事が無い。
景琰にだって、私の『魔』は伝染ったのだ。──
あの事を思い出し、背筋が冷たくなる。
一筋の濁りでも、長蘇にとっては許せないのだ。
靖王は真っ直ぐな性格で、仁義に敦く、正しくあろうとした。
その為に己が窮地に落ちようとも、受け入れる。
靖王の様な漢が、一体何処にいるだろうか。
靖王と友でいることが、どれ程誇らしいか。
心の繋がりが、今ここに来るまでの辛い行程の中、どれ程長蘇の支えになっている事か。
靖王を穢す事は他人であろうと、況(ま)してや自分ならば尚更許せない。
この真っ直ぐな、何にも汚されていない靖王の純粋な瞳が、黒く染まった真珠を見た時の翳りを想像し、そして何よりもそれが怖い。
長蘇はぎゅっと拳の中に真珠を握り締め、開くことが出来なかった。
━━ぁぁ、、小殊は怖いのか。
この真珠が小殊の『魔』で染まると?。━━
靖王が柔らかに笑い、
「怖いのか?、この真珠が小殊の『魔』で濁ると?。
ふふ、、、それならばそれで、本望なのだ。
お前の中の『魔』が、少しでも薄まるのならば。
何なら真黒な真珠になっても。
『魔』を抜き取る一つの方法が見つかったと言う事だ。
小殊が元通りになるまで、いくらでも真珠を採ってくる。」
穏やかに長蘇に言い含めた。
靖王の優しい声の響きが、長蘇の中に広がっていき、心の中にまでも浸透していった。
透き通る清々しさが長蘇の中に溢れる。
──今日と言う日は、本当に景琰に泣かされる。──
「小殊、開いてみろ、どちらでも良いではないか。
私が開いてやろうか?。」
『私がそんなに「か弱い」いと?』
言葉にはしないが、長蘇は少し挑発的な顔になり、靖王が安心する。
━━ぁぁ、小殊らしい顔だ。━━
長蘇はゆっくりと指を開いていく。
掌の中には聖白な光暈(こううん)を纏う、大粒の真珠。
長蘇が掌を見て嬉しそうに微笑んだのを見て、靖王の心が満たされた。
ずっしりと重い真珠を見て、靖王の全てに包まれたと感じた。
──ぁぁ、、景琰には敵わない。
いつも、、、離れていても、、ずっとこうして私を包んでくれていた。
景琰無しでは、私は一歩も進んでいけない。
何よりも大切な私の景琰。──
靖王は両手で真珠ののる長蘇の掌を包み。
二人真珠を見つめ合う。
「小殊、空が綺麗だ。」
「ん。」
真珠は小箱に収められ、二人の間に置かれている。
換気の為に障子戸を開けていたが、そこから見える空は高く澄み。
今、金陵で起こっている事など、天空天河には些事だろう。
今日は冬には珍しく、温かな一日だった。
こんな日は、長蘇の身体が幾分楽で顔色も良い。
「小殊、外を出てみぬか?。」
靖王に誘われ、長蘇が立ち上がろうとした。
「、、、ぅ、、、。」
やはり急には立ち上がれない。
椅子の上とは言え、長く座りっぱなしだったからだ。
靖王はいつの間に回り込んだのか、自然に右腕と左脇にそっと手が差し込まれ、長蘇が立つのを支え助けた。
靖王は何も言わず無言で支えるが、この沈黙が全く気にならない位に靖王の動きは自然だ。
そのまま支えられながら、長蘇はゆっくりと歩く。
長蘇は金陵を目の前に、突然に再会したあの日を思い出した。
鍛え込まれた逞しい体躯が側にいるだけで、長蘇が蹌踉(よろ)めく事は無い。
あの日の靖王は、長蘇の正体を知らなかった。
大切な友が側にいる。
全てを託せる好一対。
今、これ以上無い程の美しい刻の中を歩く。
まだ道は半ば。
明日の今は分からない。
泡沫夢幻の刻の中でも、今この刻の至福を忘れぬ様に心の中に閉じ込める。
表の喧騒はここには届かない。
二人は中庭に下り、誰もいない静かな気配を楽しんだ。
陽射しは温かとはいえ、今は冬。
『寒いだろうか』と、靖王が左脇を支える手で、黙って長蘇の身体をぴたりと引き寄せた。
長蘇は靖王の温もりを感じた。
天高く 碧空には姿なき鳥の声が響いた。
───十四 千年梅樹 終───