天空天河 九
十五 峰天愁
あれから慌ただしさも無く、穏やかに平穏な日々が続いていた。
毎日のように、地下通路から靖王がやってきて、刻を過ごしていく。
時には真夜中に現れ、眠る長蘇に寄り添い、朝方静かに帰る事も。
靖王への茶指導も、時折行われた。
が、相変わらずで、あまり進歩がない。
「、、もう、茶はいい、、。」
と、靖王にしては珍しく弱気に。
本来の靖王の姿は、人に対して競争心を剥き出しにしたりはしなくとも、自分の能力を高める事には努力するのだ。
「何?、、景琰?、諦めると?。」
長蘇が驚いて靖王を見つめた。
━━小殊、、そんな目で見ないでくれ。
私には才能も根性も無いのだ。━━
「私には才能が無いのだ。
刻が無駄になるだろう。」
靖王が申し訳無さそうに言った。
確かにこの頃は、あまり靖王から熱意を感じない。(元から熱意は無かったが)
「そうか、、ここまで頑張ったのに、、。
、、、、少し、、残念だな。」
「小殊には申し訳ない、、。」
靖王は伏し目がちに長蘇に謝った。
「景琰、あれだけ茶を飲んだのだ。
作法は身についた筈だ。
静妃から茶葉を贈られて、気が向いたら、自分で淹れてみてくれ。」
「ぁぁ、、、淹れてみよう。」
思いの外あっさりと、『茶から解放された』と、ほっとして頬が緩む靖王。
長蘇は靖王のほっとした表情を見逃さず、くすりと笑った。
「景琰、そんなに嫌だったか?。」
「、、、正直、最初の三日間に詰め込んだだろう?。
あれは辛かった、、、、、。
、、、、ほんのちょっとだけ、、な、、。」
『顔に書いてあるのか』と、靖王は頬を撫でながら、小声で言った。
長蘇は『辛かった』というその答えに、意外そうな顔をした。
靖王は、長蘇が教えた茶は、銘柄と産地を早々に全て覚えた。
『これなら楽勝』と、長蘇は楽観していたが、味と銘柄が最後まで結び付かなかった。
「?、、祁王から借りた兵書や兵法の類を、三日で丸暗記してきただろう。暗記しただけでなくちゃんと理解をしていた。
景琰ならば茶など造作もないと思っていたのだが。」
「茶と兵法書では、覚え方が違うし。
第一、小殊、いつの話をしているのだ。
あんな小さな頃の事を。
十にも満たない頃の話だろう?。
祁王は優秀だったし、小殊は幼いのに、祁王の話が分かっているし、、、。
羨ましかった、、、と言うか、、、二人の話が分かりたいと思ってしまって、、、。
必死で覚えたよ。」
眩しそうに長蘇が靖王を見る。
「景琰はそれで三日で覚えられたんだ。
祁王が凄く驚いていたよな。」
「『軍』というものが、私に合っていたのだろうな。
だが、覚えるのは本当に大変だったのだ。
私に付き合わされた大監や侍女は、気の毒だったな。」
「景琰は物覚えが良いだろう?。
黎崇先生の宿題は、きちんと覚えていったし。
結構な無理も言われたが、私達二人は次の講義まではちゃんと覚えていったよな。」
「私は覚えるのに苦労したが、小殊は一体どこで勉強をしているんだか。
殆ど遊んでいたんじゃないのか?。
赤焔軍の軍営にもしょっちゅう出入りしていたし。」
「あははは。
よく言われていたな。『ズル』をしているんじゃないかとか、林家の権力で先生に計らってもらったのではないかとか。
年上の者に絡まれた事もあっな。
私は書など、一、二度見れば頭に入る。」
「羨ましい事だ。」
「あはは、仕方ないな、私は金陵の『怪童』だからな。」
口調が当時の林殊そのもので、当時の事が蘇り、靖王の胸が甘酸っぱくなる。
「景琰、もう一杯だけ、景琰に茶を振る舞っても良いだろうか。
今後は一切、景琰に茶の事は言わぬ。」
長蘇は穏やかに靖王を見つめ、真面目な顔で言った。
「ん、不出来な弟子ですまないな。」
勉強無しで飲む茶に、今迄とは違う気持ちを抱いた。
もう長蘇とは、茶の勉強をする事は無いと思うと、靖王は長蘇の一言にほっとしたような、だが同時に寂しさの様なものが湧き出していた。
長蘇は配下に茶の用意をさせ、卓上の置いた小さな炉で湯を沸かす。
沸かしたての湯が、茶葉の入った急須に注がれ、部屋に茶の香りが充満する。
「、、、、今迄、三度程、飲んだ茶だが、、、、、覚えているか?。」
ちらりと靖王を見て、長蘇が言う。
「、、ん?、、、ぁ、、ああ、、。」
靖王の、分かっているような分からないような曖昧な返しに、長蘇が笑った。
「どうぞ。」
そう言って、長蘇が靖王に、湯気の立った器を渡した。
熱い茶の器を受け取り、茶の香を鼻腔一杯に入れる。
━━ぁ、、、ぁ、、、、、茶だ。━━
香ばしさと湯気が、靖王の鼻腔を潤した。
草原の爽やかさと共に、力強い香りを感じた。
ぐい、と、一気に飲み干す
━━、、、前に飲んだ気はするがだが、やはり、どの茶なのか分からない。
あれだけ教えてくれたのに、小殊には申し訳ないな。━━
長蘇にも靖王のそれは、分かっている様子だった。
「飛ー流ー。」
突然、思い立った様子で、長蘇が外に向かって声を出し、飛流を呼ぶと、中庭に降りてきた飛流が、土足のまま部屋に入り、ちょこんと長蘇の側に座った。
━━飛流はまた少し大きくなった。━━
靖王が初めて飛流を見たときは、まだ少年の域を出なかったが、半年と経たぬうちに、その容貌は青年へと変わろうとしている。
やはり人では無いのだろう、と、靖王は思った。
身体は大きくなったが、表情は子供のようで、長蘇が大事にし可愛がっている。
人非ざる者だが、きっと長蘇の側で、今後も飛流は生きていくのだろうと思った。
人の中で生きるならば、『礼節』は欠かせない。
それなのに長蘇は、飛流には『礼』を教えていない様子なのが、靖王にはどうにも気がかりだった。
「飛流も飲むか?。」
「云。」
長蘇はにこりと笑って、器に茶を注ぎ、飛流の前に置いた。
「熱くない。大丈夫だ。」
飛流も嬉しそうに長蘇に微笑み返す。
飛流は器を持ち上げると、それらしく匂いを嗅ぐ。大人の真似をしてそれらしく振る舞うが、ぎこちなく、それが寧ろ微笑ましく思えた。
飛流はぐっと一息で飲み干した。
「美味かったか?。」
靖王が尋ねると、『ん〜?』と斜めを向いて首を傾げた。
「あはは、そうでもなかったか。私の仲間だな。」
靖王が笑った。
長蘇が飛流に尋ねた。
「飛流、茶の名前が分かるか?。」
「小殊、いくら何でも、、、。」
即座に、飛流は長蘇に頷いた。
「ウン南、、の、ほうてんしゅう。」
「雲南の峰天愁だと?!。」
「飛流、良く言えたな。ご褒美だ。」
長蘇は飛流に茶菓子を差し出した。
飛流は皿の上の菓子を、片手で全部、鷲掴みにして、また外へと走っていった。
「飛流が茶が分かると!?。
疑いたくは無いが、、、。
小殊、、私を陥れようと、飛流に仕込んだか?。」
「あはは、景琰、疑うのは良い事だ。」
そう言って長蘇は怒りもせずに笑っている。
━━私は疑ったのだぞ。
小殊はなぜ笑っているのだ。━━