笑顔幾歳、願いはひとつ
そうしてようやく手を離した義勇は、またぺこりと頭を下げた。もう頬はびしょ濡れだ。
ヒックヒックとしゃくり上げながら、もう一度お願いしますと頭を下げ、未練の込もる顔で幾度か振り返りながら松のもとへ向かう。
願いの松の一本一本にそっと触れ、義勇はまた願い事を繰り返す。
みんな笑っているほうがいい。みんなに笑っていてほしい。だからお願い、叶えてください。一心に願うのは、大好きな人たちのやさしく温かな笑顔。ただそれだけ。
家を出たときには晴れていた空は、すっかり灰色の雲が覆い、空気はぐんと冷え込みを増した。もしかしたら雪が降ってくるかもしれない。それでも義勇は時間など忘れ必死に祈る。
寒さにかじかんだつま先は、ジンジンとしびれるくせに痛みは消えず、熱を持っていた。血のしみ込んだ草履も冷たい。神木に触れる手も、もう真っ赤に染まっている。芯まで冷えた幼い総身からは震えが止まらなかった。
義勇が後ろ髪引かれながらも願いを切り上げたのは、すっかり日も沈み切り降り出した雪がうっすら地面を覆うころだった。
鼻緒の切れた草履を手に、がくがくと震えながら進む義勇の足取りは重く、早く家に帰りたくとも歩みは遅々として進まない。辺りはすでに暗く、灯りを持たない義勇は痛みと怯えに身をすくませ、とうとうしゃがみ込んだ。
こんなに暗いなかを一人で歩いたことなどない。必ず誰かが義勇の手を握ってくれていた。
婆やにおんぶしてもらいたかった。姉と手を繋ぎたかった。母に抱っこしてもらい、父には肩車をせがむ。義勇の毎日は、大好きな人たちからの愛と慈しみにあふれている。
明日には満五歳。ひとつお兄ちゃんになるんだから。いくらそうやって自分を鼓舞しても、闇は怖いし足は痛いまま。震えは止まらず、自分の吐く息だけが異様に熱い。
立ち上がろうにも体に力が入らず、ぐらりと揺れて地面に倒れこんだそのとき。
朦朧とする義勇の耳に、「義勇っ!」と悲鳴めいた声が届いた。ぼやけて揺れる視界に、つんのめりながら駆け寄ってくる姉の姿が映る。
おしとやかな姉が裾をはだけて走る姿など、義勇は一度も見たことがない。涙で顔をぐしゃぐしゃにして駆けてくる姉の姿に、義勇の青ざめた唇からは安堵のため息より先に「ごめんなさい」と呟きが落ちた。
義勇、義勇と、泣き声で名を呼びながら義勇を抱き上げた姉の体も冷えていた。いったいどれだけ探し回ったのか、幼い胸に罪悪感が満ちる。
「ごめんなさい」
絞り出すように言った謝罪に、姉は泣きながら首を振った。
「どうして……どこに行ってたの……?」
「お願いしてきたの。あのね、神様と松の木に、とぉさんとかぁさんがまた笑ってくれますようにって」
朦朧としたままどうにか答えれば、姉が息を呑む気配がした。
「婆やのことお願いできなかったのも、ごめんなさいしたよ。神様、ちゃんとお願い聞いてくれる?」
「……そう、ね。ええ、きっと……きっと、お父さんもお母さんも、婆やだって、ずっと義勇のことを笑って見守っていてくれるわ……」
姉の声は涙に濡れて途切れがちだったけれど、それでも義勇はホッと頬を緩めた。
「私も、守るからね、義勇。必ず、あなたを守るわ……義勇をちゃんと守るから、見守っていて……」
姉の腕のなかでスゥッと意識を失っていった義勇には、最後に姉が発した「お父さん、お母さん」との呼びかけは届かなかった。
それから数日、義勇は高熱を発し寝込み、目覚めたときには両親の葬儀も埋葬も済んでいた。
石燈籠のわきにある階段を静かに見上げ、義勇は無言のまま足を踏み出した。
如月の空気はあの日と同じく冷たい。幼いころにはよろけながら上った階段は天上にも届くかという長さに思えたが、今日満二十四歳を迎えた義勇にとっては、息切れするほどのものではない。
あの日以来、一度も足を運ぶことのなかった場所だ。家族とともに初詣に七五三参りと幾度か訪れた神社だが、義勇は満五歳になったその日より今日まで、どうしても来ることができなかった。
神様なんていない。自分の願いは届かない。
いたずらに姉を心配させ泣かせただけで、幼い自分の懸命な願いなど徒労にすぎなかったのだ。そう思っていた。
鳥居の前で一礼し、狛犬を横目に鳥居をくぐる。安産祈願はさすがにしなくてもいいだろう。当時の自分は、狛犬をなでる行為の意味も知らずにいた。
利き腕をなくしてからもう二年経つ。最初はいろいろと難儀したが、今では隻腕でもあの日よりよっぽど上手に手もすすげるようになった。
須佐之男命を祀る拝殿の前に立ち、賽銭を投げ入れた。成長した義勇は鈴の綱にも軽々と手が届く。あの日との変化はいくらでもあった。
姉は義勇を守り逝き、初めて得た親友も失った。いくつもの出逢いがあり、何人もの知己と別れ、自身も障害を負い命数も残り少ない。
けれど、あの日から今まで、なにも変わらぬものもある。
柏手を打とうにも片手ではどうにもならず、義勇はわずかに苦笑し頭を下げた。手刀と変わらぬ仕草になるが、致し方なしと許してもらうこととしようか。笑みをおさめて目を閉じた義勇は、ひっそりと心のなかであの日と同じ願いを告げる。
どうか、みな笑顔で。
願いは今もひとつきり。みなが笑って過ごせるように。ただそれだけ。
ただそれだけ願って、戦ってきた。痛みも苦しみも絶望も、すべて乗り越えここまできた。失ったものは多く、けれど、得たものも決して少なくはない。この手に残されたものは、どれもこれも、あのころと変わらず大切で愛おしいものばかりだ。
あの日よりずっと短く参拝を済ませ、義勇は願いの三本松へと足を進めた。
神木は変わらぬ姿で立っていた。そっと手を触れ、同じように願い事を心でつぶやく。
『悪しきことは“スギ”去れ、願い叶うを“マツ”』
であればあの日義勇が願うわねばならなかったのは、杉の木であるべきだったのかもしれない。
けれども決して無駄ではなかったと、義勇は小さく微笑んだ。
「願いは……ちゃんと叶ったぞ」
あの日の願いはひとつ。今も変わらぬ、ただひとつの願い。
みんな、みんな、どうか笑顔で。
父と母、姉も、婆やも、もういない。けれどきっとあの日姉が言ったように、遠い場所で笑って義勇を見守ってくれているだろう。
錆兎も、煉獄や胡蝶、時透に悲鳴嶼さん、伊黒と甘露寺もお館様たちも、みんな、みんな。
不死川や宇髄、村田も炭治郎たちも、輝利哉様たちも、会えばみな義勇に笑みを見せてくれる。笑っている。
神が本当にいるかなんて、今も義勇は知らない。信じているとは言えない。それでも、幼かった自分の願いはきっと無駄ではなかったのだと、今は素直に思う。
義勇はゆっくりと歩いていく。足はあのころよりずっと頑健で、痛みなどないけれど、あの日のようにゆっくり、ゆっくり、歩いていく。急ぐ必要はきっとない。いつこと切れるかわからぬ命でも、焦ることはないのだ。もう血の匂いに満ちる夜はこないのだから。
それでもあの日よりもずっと早く帰宅を果たした義勇は、戸口をくぐる前に聞こえてきた声に足を止めた。
「あーっ! おいっ、半半羽織いやがったぞ!」
作品名:笑顔幾歳、願いはひとつ 作家名:オバ/OBA