雨降って地固まる
「あいつはまだ艇に来て日が浅いからな。知らない奴がいても不思議ではない。街で俺を見かけたというなら、一緒にいたのはフロレンスだ。もしくは俺ではない、まったくの別人だな」
ヴェインとはパーティを組む機会もない。身内の話をしたこともなければ、姉の存在を認知していないのも当然だ。
…というか正直、ヴェインの顔がうまく思い出せない。白竜騎士団の副団長であるその名は聞き及んでいるが。
要はその程度の繋がりだということだ。
ガウェインの言葉にコルワは「…そういうことなら納得だわ」と平静に戻った。
般若の様相はどこへやら、一転して表情を曇らせる。
「まずいかも。この噂、鷲王さんの耳にも届いてると思う」
対するガウェインは、なんだそんなことかと小さく笑った。
「あの男がその程度で動じるタマか」
「駄目よ!強そうな人ほど、些細な誤解でバッドエンドに陥りがちなの!早く行かないと変な服着せるわよ!」
「心底意味不明な女だな貴様…!」
こっちは朝食もまだだというのに。夕食も摂らずに寝てしまった為、胃袋は冗談抜きですっからかんだ。
しかしこちらの事情など関係ないとばかりに、みるみる巌のような表情になっていくコルワを前にしてはそんなことも口には出来ず。
これは見逃してもらえないであろうことを悟り、ガウェインは諦観の溜め息を落とした。
「…わかった。行くからそんな顔をするな」
「鷲王さんの部屋までついて行くから」
ここで抗議をすればまた何を言われるかわかったもんじゃない。
好きにしろと投げやり気味に言い、ガウェインは渋々ながらネツァワルピリの部屋へと足を向けた。
道中ひと言も発することなく、無言の圧力をこちらの背中にびしびしと叩きつけていたコルワだったが、目的の部屋の前に来るなり間髪入れず前に進み出て勝手に扉をノックしてしまう。
「っ、おい!」
さすがにガウェインが噛み付くが、既に扉の奥からは応じる男の声と足音が聞こえてきて。
「いい?完全に誤解を解くまで、絶対に出てきちゃ駄目よ」
早口にコルワが言い終わった直後、扉が内側から開けられ、
それと同時に思い切り背後から突き飛ばされた。
肺の機能を停止させんばかりの掌底突きに、一瞬呼吸が奪われ視界がぶれる。そして顔面から固い肉の壁に突っ込む羽目になった。言うまでもなく、ネツァワルピリの胸筋だ。
「ぶ」
「おっと」
文字通り鼻っ柱が折られるのではという固さに思わず涙目になる。危うく崩れ落ちそうになるこちらの両上腕を、力強い手が支えてくれた。
「ガ、ガウェイン殿…!大事ないか!」
「ああすまん。……くっそ、油断した…」
鼻を手で庇いつつ背後に恨めしげな視線を投げるが、コルワの姿は既にそこにはなくて。
まったく、好き勝手にやってくれる。
途端、労わるように腕に触れていたネツァワルピリの手がぱっと離れて、その行動に違和感を覚えガウェインは相手を見上げた。
至近距離で目が合うと、何故か無実を表明してハンズアップするネツァワルピリ。顔ごと逸らし、明らかに挙動不審だ。
そのままの姿勢でじりじりと後退していく様は、恵まれた体躯と堂々たる風格からはかけ離れていて、いっそ滑稽にも見える。
「あ、あー……我に、何か?」
「……おい、お前まさか…」
昨日は特に変わった様子はなかったように思うが、この態度の違いは…
『強そうな人ほど、些細な誤解でバッドエンドに陥りがちなの!
』
コルワの必死な声が脳内で再生される。
ガウェインは唇を引き結び、室内に足を踏み入れて後ろ手に扉を閉めた。
困惑した様子でこちらを見つめるネツァワルピリに詰め寄り、相手をベッドまで追いやる。
「ガウェイン殿…っ?」
両腕を伸ばして男の広い肩にそれぞれ手をかけると、ぐっと下に力を入れて座るよう促す。ぎこちない動きでベッドに腰掛けたネツァワルピリの両大腿部の横に膝をついて身を乗り出し、額と額をこつんとぶつけてやった。
至近距離で猛禽類を思わせる鋭い双眸を捉えるが、いつもの力強さはなりを潜め、不安げに揺れている。
それを見て、確信した。
「まさか、噂とやらを真に受けてるんじゃないだろうな?」
「な、なんの……話…」
あからさまに目を泳がせるネツァワルピリの反応は、如実に肯定を表している。
ガウェインは一度溜め息を落とすと、何も言わずに相手の薄い口唇に唇を重ねた。
唐突な口付けに対し、どうするべきかという迷いが完全に全身を支配している男の口腔内に舌を捩じ込み、厚い舌を舐る。
普段は施されてばかりだが、主導権を握れたようで少し楽しい。
しかし、のろのろと応え始めた舌を何度か吸い上げると逆にこちらの息が徐々に上がってきてしまい、ゆっくり顔を離した。する側というのは存外顎が疲れるらしい。
細い唾液の糸がはしたなく互いの口唇を繋いで消える。
息を整えつつ、ネツァワルピリの肩口に目元をぐりぐりと押しつけてガウェインは口をひらいた。
「…昨日、俺といたという女はフロレンスだ。俺の買い物に付き合ってもらって、そのあとあいつに色々連れ回された」