想いと誓い
「っ…そうだ!煉獄杏寿郎だ!」
「……」
思わず声を上げるが、相手は呆然と立ち尽くすばかりでそれきり口を閉ざしてしまう。
もどかしさに歯噛みし、煉獄は大股で彼に向かって歩き出した。
全方位に撒き散らしている殺気は変わらないが、動揺しているのか今は揺れて乱れている。
完全に相手の間合いに入るが、動く様子はない。そのまま距離を詰め、煉獄は自身の胸ポケットに一度手を突っ込むと彼の手をぞんざいにとって、さるぼぼを強引に握らせた。
「起きろ、猗窩座!君が負けてどうするッ!」
至近距離で鼓膜を突き破らんばかりの声量をもって怒鳴りつけると、小柄な体躯がびくりと反応した。
直後、相手は軽く膝を曲げて大きく跳躍し、少し離れた木の枝の上にしゃがんでその身を落ち着かせる。
既に夜となった時分で、暗がりの中距離が空くとその表情を見ることは叶わなくなってしまったが、煉獄の耳に再び声が聞こえた。
「…すまない、きょうじゅろう。今は……まだだめだ」
「猗窩座っ…」
どこか苦しげな様子に駆け寄りそうになる煉獄を、拒絶の色が滲んだ声が遮る。
「待っていてくれ…。おれは……負けない。……むかえに、行くから…」
「ッ……」
「…俺は、負けない。お前を、まもる。……守る。…だから、」
あのおしゃべり好きなはずの鬼が、舌足らずにぎこちなく言葉を紡いでいる。
まるで、何かに抗う傍らで最低限のことを必死に伝えようとしているような印象を受けて、煉獄は聞き漏らすまいと懸命に耳を傾けた。
「だから…、俺を……信じて、待って、くれ…」
「…わかった。」
猗窩座の途切れ途切れの訴えを大切に受け止めて、日輪刀を鞘に納め、まっすぐ想いをぶつける。
「猗窩座、俺は君にまた会いたい。君を信じる。…必ず迎えに来い」
「……かな、ら…ず…」
電波が途切れるかのように猗窩座の声は消えていき、苦しそうな息遣いがぴたりと止まった。
そのまま無言になり枝の上にすらりと立つと、もうこちらには目を向けることなく跳躍して木々の中へと姿を消してしまう。
それきり、彼の気配は遠のいていった。
その背を見送った煉獄は、固く拳を握り込んだ。爪が手のひらに食い込むが構わない。
脳裏に映るのは、無表情な上弦の参。
あんなに感情のない猗窩座をこれまで見たことがない。何よりも強者との戦いに喜びを見出していたはずなのに、淡々と、何かに操られているかのように、殺すことだけを目的とした体捌きだった。
異様な力に呑み込まれているという表現が一番しっくりくるだろうか。
血鬼術を使わなかった理由はわからないが、もしも使われていたら恐らく今自分は生きていない。
…もう会えないかもしれない。そう思っていただけに、姿を見たときは嬉しかった。生きていたとわかり、心底安堵した。
が、それもほんの束の間。
猗窩座は、変貌していた。
「…本当に、何があったんだ」
『お前を守る』と、猗窩座は言った。
もしかして、血鬼術を使用しなかったのは、『彼』に対して猗窩座が抗ったためだったのだろうか。
無惨の呪いは解けていた猗窩座の身に、一体何が起こったのか。人間の己には、知る由もない。
静寂が戻った山の中、離れたところで落ちる滝の音だけが聴覚に届いてくる。
やはり、きっとここは猗窩座の寝倉のひとつだったのだろう。だから帰ってきたのだ。
その場に背を向けて、煉獄は再び下山を再開する。
『信じて、待ってくれ』
無感動な傀儡と化しても、必死に伝えてくれた言葉を反芻する。
きっと、猗窩座は負けない。またこちらの名を呼んでくれる日が必ずくる。
抑えようのない胸のざわめきを覚えながら、煉獄は力強く信じた。
+++
煉獄と別れた後、猗窩座は狩った猪を平らげてから、山の中腹にひっそりと建てられた廃寺の本堂にいた。
奥の壁に寄りかかり、煉獄に押し付けられた人形を手のひらの上に転がしてみる。ちり、と乾いた鈴の音がした。
…随分と長いこと、夢を見ていたような気分だ。
いや、記憶はある。曖昧模糊な、それこそ夢か現か判断できないような記憶が。
無惨様に回収されて無限城に連れ戻され、どのようにして支配を解いたのかと、尋問と折檻を受けていたところまでははっきりと覚えているが、そこまでだ。
その後は、何故か童磨の寺院に奴と一緒にいたり、ひどく暴れて手当たり次第建物やら岩やらを壊してまわっていたりと、断片的なものしか覚えていない。
頭に声が響くのだ。殺せと。食えと。
その声に脳みそを覆われると、意識が飛ぶ。そして気がついたときには周囲には瓦礫の山が出来上がっていて、あの童磨ですら俺を拘束することが出来なかったらしい。
主導権が得体の知れない何かに握られる。身を任せてしまえば楽だとは思うが、これは俺の身体だ。好きに使われることが許せなかった。
『猗窩座殿は、無惨様の血を大量に注がれていたんだぜ。肉体が破裂してしまうのではないかと冷や冷やしたが、さすがは猗窩座殿だ。しかし理性の方はだいぶ侵食されてしまったね』
意識が戻った際に、何があったのか訊ねるとボロボロになった童磨がそう教えてくれた(信じ難いことに俺がやったらしい。いい気味だ)。
あの胡散臭い教祖がまた適当なことを抜かしているのかと、初めは信じていなかったがすぐに実感した。
身に覚えがないのに己の周りが粉々になっているのだから、認めざるを得なかった。同時に、激しい怒りを感じた。容易に呑み込まれてしまった己の不甲斐なさが、許せなかった。
しかし、身のうちから強制的に湧き上がる破壊衝動に、意識はすぐに切断されてしまう。その繰り返しだった。
ただ、人間だけは傷つけてはいけないと。食ってはいけないと。
そこだけを必死に貫いていたが、記憶のない間のことは自分ではわからなかった為、不本意だったがその都度童磨に確認していた。
幸い俺が傷つけていたのは童磨だけだったと聞いている。『俺にも優しくしておくれよ』などと泣きついてきていたが、そこは忘れておこう。
意識を保てる時間が長くなってきたのは、つい最近のことだ。
そんな中、懐かしい気配を感じとった。
気高く、美しい、強者の闘気。
一気に破壊衝動が押し寄せてきて、暗転した。
暗闇の中、己の中の衝動をどうにか捩じ伏せようと焦っていたのを覚えている。このときは、たぶん意識はあったのだろう。でも主導権は自分にはなくて、もう一人の自分とせめぎ合っていた。
この闘気の持ち主は、誰だったか。
決して忘れてはいけない、大切な人だったはず。
大事な力でたくさんの人を手にかけ、死を覚悟した俺に、火を灯してくれた人。
綺麗な力強い瞳と、熱い心を持った人。
俺にとって特別で、信じると言ってくれた人。
身体が、破壊と殺戮を求めて勝手に動く。
やめろ。
そいつは、そいつだけは傷つけてはいけない。
何があろうと、もう失いたくない。守ると誓ったんだ。