想いと誓い
+++
一人残された童磨は、猗窩座の去り際の言葉をぐるぐると何度も頭の中で反芻していた。聞き間違いではないかと疑うあまり理解が追いつかない。
……あの猗窩座殿が、この俺に助かったなどと口にする日が来ようとは。
ぽかんとしたまま、立ち尽くす。
血を与えられてから自我を失った猗窩座に、何度殺されかけたかわからない。
彼の状態は、手がつけられないほど凶暴になるときと、声をかけても無反応なときの二つに分けられていた。意思の疎通は困難で、周囲のものを手当たり次第破壊していくのだ。おかげで寺院は半壊したが、信者たちが日々修復に勤しんでいる為、なんとか保持できている。
意識が戻るようになったのはここ最近のことだ。久方ぶりに声を聞いたときには驚いた。
今日、猗窩座に何があったのかは知らないが、彼に表情が戻っていたことに対し、めでたいと口にしたものの、たぶん自分は落胆したのだろう。
「……」
初めはあまりにも危うい状態になんとなく傍にいたが、近くに彼がいたことに居心地の良さを感じていたのかもしれない。
暴走する力の捌け口がないと自傷行為にでも発展しそうな彼に抱く、自分がいないと、という感情……信者たちはこういうものをなんと呼んでいたか。…依存。否、所有欲、庇護欲、……はて、なんだったか。
なんにせよ、それに近しいものを自分も感じていたのだろうか。
「ふふ。いつでも帰っておいで、猗窩座殿」
力に呑まれようが呑まれまいが、どうでも良い。
いつだって俺は貴殿を受け入れてあげよう。
そう。俺は優しいから。
童磨はゆったりした足取りで廃寺から出ると、猗窩座が去った方向とは逆に向かって消えていった。
+++
煉獄と再会し、廃寺で童磨と別れてから、更にふた月が経過した。
不思議なことにあの日を境に、制御できない衝動はすっかりなりを潜めている。
意識が途絶えるようなこともなく、猗窩座は底上げされた己の力を馴染ませるように一人鍛錬を積んでいた。
鬱蒼とした竹林の中、これまで何百、何千、何万回と繰り返してきた素流の型をなぞる。
指先まで丁寧に、力強く、正確に。爪の先までが自分の身体であることを意識して、水が流れるように延々と没頭する。
技を繰り出すときの四肢が風を切る音、鋭い体捌きで生じる衣擦れの音、踏み込みにより土が抉れる音。それらの音が、猗窩座は好きだった。確実に自分の糧になっていると実感できるから。
ひとしきり身体を動かしたあとは、適当な場所に座り込んで目を閉じ、己の内側に潜んでいるであろうもう一人の自分の気配を探る。
破壊や殺戮を煽り立ててくる声は、やはり聞こえない。沸騰した鍋から吹きこぼれるような、あの抑えきれない得体の知れない感覚も消えたままだ。
五感は偽りなく隅々まで自分のものだし、身体も問題なく意のままに動かすことができている。
この調子なら、そろそろ杏寿郎に会いに行っても大丈夫かもしれない。
そう考えただけで、自然と口元が緩んだ。なんだか随分久々に口角の筋肉が弛緩したような気がする。
ふと思い出して、ポケットに手を突っ込んでちりめん素材の人形を取り出した。
指先で摘む程度の大きさの、顔のない真っ赤な人形。杏寿郎に強引に渡されたものだが、これはなんなのだろう。藁人形などのような呪いの類ではないと思いたいところだが…
まあ次に会ったら直接訊けば良いだろうと、それをポケットにしまい直したとき、指先に固いものが触れた。
怪訝に思いまさぐって手のひらに取り出してみると、小さな銀色の金属がひとつ。半円状の筒形になっている。
「……」
見覚えはあるが、なんだったか。
小首を傾げてしばらく眺めていたが、「あ」と声を上げて猗窩座はもう一度ポケットを探った。すぐに指先が目的のものに触れ、摘み出す。
そうだ。これはふたつでひとつだった。胸中でそう呟いて、まったく同じ金属をもうひとつ手のひらに転がした。
以前童磨からもらった、耳につけるもの……外国語で何か言っていた気がするが、名前は忘れてしまった。
呪いというならこちらのほうが余程呪われていそうだ。
その辺に捨ててしまおうと猗窩座は軽く振りかぶったが、逡巡して腕を下ろした。
仮にも今回は奴がいなければ人里を襲っていた可能性は高い。不本意ながらも面倒を見てもらっていたので、捨てるのはもう少し先延ばしにしてやることにして、ちりめん人形とは反対のポケットに落とした。…なんとなく、同じ場所に入れたくなかった。
空を見上げると、そろそろ陽が傾こうかという時分。
任務がなければ巡回に出始める頃合いだろう。ちょうど良い。
「待っていろ、杏寿郎」
猗窩座は逸る気持ちのままに、竹林の中へと足を向けた。
+++
…ああ。
ここだ。ここに杏寿郎がいる。
煉獄の巡回担当の地区に向かう途中、僅かに目当ての闘気を感じて猗窩座は一心不乱に探りつつ移動を続けていた。
今回の件により、以前にも増して闘気を捉える精度と範囲が底上げされた。小さな町や林を抜けて、さらにその先の町へ向かう。煉獄も移動しているようで、向こうも徐々に近づいてきているが恐らくこちらにはまだ気がついていない。
ふと、前方を流れる川から鬼の気配を感じた。
無視して通り過ぎようとしたが、下弦に満たないまでもそこそこ力を蓄えているらしい鬼だ、もしかしたら杏寿郎がこいつを狩るための任務で出向いているのかも知れないと思い、川に差し掛かる手前で足を止めた。
幅の広い川だ。丈夫そうな木製の橋がかかっているが、ちょうどその辺りに鬼は潜んでいる様子。川の中に身を隠し、橋を渡る人間を襲っているのだろう。
待ち伏せして弱者を襲って何が楽しいのかさっぱり理解できないが、どうせ今夜杏寿郎に斬られる。光栄に思うことだ。