連理の枝
その瞬間、シャアは膝の力が抜けた様にベッドサイドに額ずくと、アイス・ブルーの瞳から熱いものが零れ落ち、アムロの手の甲にいくつもの滴を落とした。
シャアはそのままアムロの手を握り締め、己の口元に寄せた。
何も言葉が出てこない。
心は喜びに溢れ、今まで信じた事も無い神に感謝の言葉を述べていた。
手を通して柔らかな思念波がシャアを宥めてくれる。
それが尚更、シャアの涙を溢れさせた。
そのまま5分ほどが過ぎ、幾分落ち着きを取り戻したシャアは慌てて立ち上がると、
「Drを呼んでくる。少し待っていてくれ」と声をかけ、颯爽と病室を出て行った。
独り取り残される形となったアムロは、何故シャアが側に居るのか、ここは何処なのかと混乱をしていた。
その混乱を更に増強するものが、アムロの身体には襲い掛かっていた。
(とりあえず、何とかしないと…)
アムロは手探りで点滴のチューブを見つけて滴下を止めると、慎重に針を抜いた。
ゆっくりと上半身を起こしてみる。
心配するほどの激痛は無いが、身体を動かす事が酷く辛い。
わずかな動作で息が上がる。
なんとかベッドサイドに立ち上がってみるが、体力と共に筋力も落ちきっているせいか、足が身体を支えきれずに床にくず折れてしまい、大きな音をたてた。
すると、音に反応した様に病室の扉が開き、誰かが駆け込んできた。
「誰?」
苦しい息の下から問うと、暖かい手と共に懐かしい声が耳を打つ。
「アムロ!どうしたの?やっと意識が戻ったばかりだと言うのに、何をしているの?兄さんは?」
「セイラさん?なら、ここは地球と言う事ですか?僕は何故ここに?」
質問に質問を返す会話をしながらアムロの手はセイラの方へ向けられるが、目標からやや逸れて空を彷徨う。
「ア…、アムロ?貴方……眼が……?」
セイラの声は、ようやく絞り出した様に辛いものになる。対してアムロは、何処か達観した様な表情を浮かべてセイラの方向に顔を向ける。
「やはり、ばれますよね?気が付いた時からですが、光の明暗は何とか判るのに、物を明確に捕らえる事が出来ません」
「なっ・・・何故、そんな事に・・・」
セイラはそれだけしか聞く事が出来なかった。
そして、その質問に対する答えを、アムロは持っていなかった。
床にいつまでも座らせておくわけにもいかず、セイラはアムロに手を貸して立たせると、ベッドサイドに腰掛けさせた。
腰を掛けるまで息を詰めていたのか、座るなりアムロは大きく息を吐き出した。
そして、少しだけ寂しそうな表情をすると、
「でも、これで僕は二度とMSに乗る事は出来なくなったと言うわけですね。ようやく戦争の道具にならなくて済む。ある意味、満足してますよ」
「そんな・・・・、アムロ。何故、貴方だけが・・・」
アムロの前に膝をついて座り、労わる様にアムロの両手を握り締めているセイラの、金色の睫に縁取られたペール・ブルーの瞳から涙が零れ落ちた。
「ただ、気がかりな事は、シャアが・・・、彼が再び暴挙を働こうとした時に、僕は止められないという事です」
「再びはないよ」
低く押し殺した声が、扉から投げかけられた。
「兄さん!」
弾かれた様にセイラの泣き濡れた顔がシャアに向けられ、アムロの顔は緩やかにシャアの方向に動く。しかし、アムロの瞳は、シャアの視線を捕らえてはくれなかった。
その4
シャアに連れられて来た主治医は、セイラの話を聞くなりアムロの視力のチェックをしはじめた。
ペンライトを当てたり、指を顔の前で左右に揺らしてみたりしながら、アムロに2・3の質問をした。
診察を終えた主治医の見解はこうだった。
「高熱を発するものを長時間にわたって見続けたせいで、網膜の色や形を判断する細胞を損傷してしまったと考えられます。明暗を判断する細胞はそれよりも強く出来ていますので、かろうじて残ったのでしょう。ここに運び込まれてきた時には、全身を強打した事により、肋骨は肺を損傷、脾臓は破裂、胃腸も壊死を起こしてはいましたが、頭部への受傷は認められませんでしたから、視神経は正常なはずです。この先、体力の回復に伴い若干の改善はあるかもしれませんが、元に戻るのは絶望的であると判断します」
この診断結果に一番ショックを受けたのは他ならぬシャアであった。
自分がアクシズを落とそうとしたばかりに、この様な障害をアムロに背負わせる事になってしまった。
誰よりも大切にしたい、何物にも変えられない存在だと気付いた矢先に、その彼に消す事の出来ない傷を己が付けてしまった事に、シャアは言葉を失くした。
セイラに促されて横になったアムロは、フワリと微笑むと「シャア?」と声を掛けて手を伸ばす。
その手を取りたいが、己のした事の罪深さに苛まれて動けなくなっているシャアに、再びアムロが声を掛ける。
「貴方が居るんだって確認したいんだ。手を握ってくれないか?」
「兄さん!」
セイラの後押しを受けて、錆付いたロボットがギシギシと音をたててぎこちなく動く様な動作で、それでも何とかシャアはアムロの細くなった指を握った。
“暖かい”
「生きているって素敵だね。俺は、貴方の暴挙を止める為なら、こんな命など無くなろうと構いはしないと思って戦った。でも、今こうして貴方の生を感じられる事が、こんなに嬉しいとは思わなかった。失くす命の代わりに視力を持っていかれたなら、安いもんだよ」
「ア・・・アムロ・・・。そうは言っても・・・」絞り出すような声で返事をしながら、シャアは顔を上げられなかった。
「アムロ。あなたって強いわね。それに、とってもポジティブ」
「セイラさん?」「アルテイシア?」二人は同時に、同じ人物の異なる名前を口にした。
「だってそうでしょう?見えなくなった事は大きなショックのはずなのに、命のある事に喜びを見出す。誰かさんの様に、後ろ向きに考えないのですもの」
後半はチラリと暗い表情の兄に向けて言う。ペール・ブルーの瞳は、咎める様な感情を含んでいた。
「変えられない事に拘っていても何も生まれない事は、これまで充分経験しましたから。今、そしてこれから先、自分に出来る何かを探した方が、人生は楽しいでしょう?新しく挑戦をしないといけない事が増えましたからね」
「そうね。でも、今は先ず体力を戻す事が先決。顔色が良くないから、眠った方が良くってよ」
そう言って掛け物を直すと、その上からポンポンと軽く叩く。かつてシャアにした時と同じ様に優しく。
「シャア?俺が眼を覚ますまで、貴方も休んだ方がいいぞ。手・・・冷たいから…。起き・・・ら…、話…」
アムロの声が少しずつ小さくなり、遂にはコトリと眠ってしまう。握った手は離さずに…。
アムロの何故か幸せそうな表情はシャアの胸を締め付けたが、それはけして痛みだけのものではなかった。
その5
春の日差しを受けて草木が伸びる様に、一度目覚めたアムロは日毎に変化を見せた。