褒美
ゆったりとした足取りで距離を詰められ、まさかまた血ではあるまいなと猗窩座が引き攣る顔を堪えて内心身構えていると、無惨はしまいっぱなしだった手を徐にポケットから出して、指先に挟んだ紙切れを二枚、顔の前で振ってみせた。
「能の鑑賞券だ。私と来い」
「の、能…!?」
「私はお前を正当に評価している。今後も期待しているぞ」
こ、これは緊急事態だ…。
あの無惨様と、二人でお出かけ。それもまるで逢瀬だ。
こちらが断ることなど毛ほども疑う様子はなく、上機嫌に目を細める無惨。
予想だにしない誘いに困惑している猗窩座の肩に腕を引っ掛け、童磨が虹色の瞳を輝かせた。
「素敵にございますなぁ!私も舞踊には多少の覚えがあります故、ご一緒してもよろしいでしょうか!」
「…これは猗窩座への褒美だ。行きたければ一人で勝手に行け」
同行を申し出た童磨に対して、無惨の声音がたちまち低くなる。少しばかり不憫に思ったが、そもそも感情のない童磨には特に響くものはなかったようで、困ったように残念至極と笑っていた。
猗窩座としては自分の代わりに童磨に行ってもらえれば、と一瞬考えが頭をよぎっただけに好機を逃したような気分になる。
「む、無惨様…私には学がありません。折角ですが…」
「お前の技は…舞に…通じる…ところがある」
遠慮しているとでも思っているのか、黒死牟が無知を理由に辞退しようとしているこちらの背を、励ますかのような口振りで押してきて猗窩座はぎょっとした。
違う。そうではないぞ黒死牟。俺はあわよくば行かずに済む道を模索しているんだ。
もちろん無惨様のことは尊敬しているし多少いきすぎる部分は否めないが嫌いではない。任務以外で誘いを受けることは光栄なことである。
が、如何せん話題がない。一緒に出かけたところで空気が地獄になることは火を見るより明らかだ。
無惨もまさか気まずい空気に耐えられそうにないから断ろうとしているなどとは知る由もなく、黒死牟の言葉に納得したように頷いてどことなく優しげな口調で言う。
「演目がらわからずとも、見て感じるだけでいい」
「しかし…」
「新たな強さへの手がかりを見つけられるかもしれんぞ」
「……、」
そう言われてしまうと、気まずさ云々よりも純粋に興味が湧いてくる。
「…有り難く、頂きます」
猗窩座が好奇心に負けて両手で券を一枚頂戴すると、童磨がめげずに口を挟んできた。
「どこの舞台であろうな?俺も同じ日に観に行こう!黒死牟殿もご一緒に如何だろうか!」
「日取りは黒死牟を通して伝える」
無惨は一方的にそれだけ言うと、音もなく姿を消した。
無視される形になった童磨だったが、黒死牟に向かって親指を立て片目を瞑ってみせる。
「来るなと仰らなかったということは、好きにしろということだ!黒死牟殿、俺にもあとで日取りを教えておくれ」
「……無惨様が…それをお望みでない」
「いやいや考えてもみて欲しいものだよ黒死牟殿。無惨様は我らで猗窩座殿を祝おうと仰った。つまり皆で能を楽しもうということだ」
「……」
「下の者は上の者の考えを察して行動しなくては。言葉にされてから動くなど不束極まりないと思わぬか?」
毎度のとこながら都合よく解釈する男だ。
そのよく回る舌は鬱陶しいことこの上ないが、考えようによっては無言による恐怖の間を埋めるにはちょうど良い。
仮に黒死牟から奴になんの伝達もなかったとしても、こちらから寺院に出向いて教えてやれば済むだろう。
黒死牟は童磨の相手を放棄したのか、特に言葉を返すことなくこちらに向き直った。
「猗窩座…、目玉は…」
「大丈夫だ。持ち歩く」
ゆっくりと紡がれる言葉を遮るが、黒死牟は長い髪を揺らしてかぶりを振る。
「いや、…捨てて…構わない…」
「?それでは俺を探すのに時間がかかるだろう」
「指なら…良いか…?」
「……。」
なるほど、童磨に放った「気色悪い」という発言を気にしているらしい。
とはいえ指も指でどうかと思う。まあ眼球よりは幾分かマシかもしれないが…
「別に。これで良い」
「……そうか」