もうひとつの、ぼくは明日……
高寿は笑って愛美を見た。
「それで、私が十五歳のときは、二十五歳の高寿とこことよく似た山田池で会っていっぱい話をしたんやで。なんでそんなことできたんかわからへんけど」
「そして、僕が十五歳のとき、二十五歳の愛美と植物園で会った。僕たちの運命をすべて教えてくれた。十五歳の僕からしたら君はとても眩しくて、しっかりした人に見えたよ。声かけられたとき、びっくりして逃げようとしたけど、私のこと覚えてないと聞かれて、なんだろうと思って話を聞いてみたんだ。君の話はとても不思議だったけど、なぜだか本当の話に思えた。それで僕は二十歳の君に会いたいと思ったんだ。このルーズリーフを見て益々君に会いたいと思った。そして今日君に会えたんだ」
「二十歳でめぐり会った」
二人が同じことを同時に言った。
「やっぱり運命なんや」
「そうだね、きっと運命なんだ」
「とってもいい運命やったけど、つらい運命でもあるねん」
「つらい運命?」
高寿はじっと愛美を見る。
「付き合った一月ほどの間、君は頑張ってくれた。ルーズリーフに書いてあることをなぞって恋人になってくれた。そして段々恋人じゃないようになって、最後は知らへん人になった」
「僕は今不安だけど、それは最後までちゃんとできたってことだね」
高寿は一度目を伏せたが、愛美を見つめた。
「うん、今思うと頑張ってくれてたわ。だからちゃんと楽しかった」
「できる気がしてきたよ。ごめんね気使わせて」
「うううん、気なんか使ってへん。一緒にいるとなんでも楽しい。さ、ぼちぼち家に帰ってごはんにしょう。あっ、写真撮ろう」
愛美は宝ヶ池をバックに二人で自撮りした。
二人で電車に乗った。
夕焼けが綺麗だった。
夕焼けの色が愛美の心に寂しさを注いだ。
今日が終わってく、高寿との時間が終わってく。
家に着いて二人はリビング横のキッチンで、ビーフシチューを一緒に作った。
「すげーおいしい。なにか隠し味があるの?」
「またそれ聞くの? あっ、またじゃないか初めてか」
「えっなに、前にも聞いた? 肉じゃがのときか」
高寿はルーズリーフで見た記憶を手繰ってるようだった。
「え、肉じゃがのこと知ってるんや。あのとき、わざとカレーって言ったん?」
愛美は大きな目を丸くしている。
「いとこんにゃく買ったのに、カレーはないわって君に言われる」
「えー、そんな細かいこと覚えんとって」
二人ともずっと恋人だったように笑った。
食べ終わって高寿の唇の横にビーフシチューがついていた。
愛美は自分の唇の横を指で指しながら
「付いてるで、子供みたい」と言った。
高寿が反対側を手の甲でぬぐった。
「違う。こっち」と言って指で頬に拡げた。
「えっー、何何」
高寿はちょっと逃げようとしたが遅かった。
「かわいいよん」
愛美が覗き込んで笑ってる。
「ひどー!」
「緊張とれたやん。はい、ティッシュ……。あっ、顔洗う?」
「ああ、顔洗っていい? シチューの匂いさせながら別れたくない」
「ごめん、洗面所こっち」
愛美は高寿を洗面所に連れていって、新しいタオルを渡した。
高寿はショワショワショワと音をたてながら、顔を洗った。
「え、何?」
愛美が聞いた。
「あっ、僕顔を洗う時、息を吹きながら洗う癖があって」
「何それ」
「それすると水が冷たくない感じがする」
「えー、……そのうち試すわ」
「信じてないよね」
「信じてない」
二人は顔を見合わせて笑った。愛美は少し肩の力が抜けた。
リビングに戻ってからソファーに二人並んでワインを飲んだ。
二人のたどってきた、たどっていく一月間の写真を見た。
愛美は、自分はこんなに饒舌なんだと思うほど喋った。
愛美は一しきりしゃべって、黙り込んだ。そして、胸に秘めていた想いを口にした。
「あのね、淡路島行った帰り、一人で車運転しながら、ずっと考えててん。……高寿と、これから先もずっと一緒にいたいって。でも、そんなこと言ったら重いかなって思って、言えへんかった。……でも、今なら言える。高寿、私、あなたとずっと一緒にいたい」
愛美の声は少し震え、頬は紅潮していた。
「わかったよ、僕もずっと一緒にいたい」
高寿も微かに顔が赤くなっていた。
愛美は膝の上で両手を両手を合わせ、ぎゅっと握った。
写真を見る二人は笑顔だったが、残った写真を全部見て、今日撮った宝ヶ池の写真までくると、愛美は涙ぐんだ。
高寿は愛美の髪を撫でながら言った。
「僕は、ルーズリーフに書いてある二人のことを見て、君に会いたいと思った。僕は君に恋した。僕は二人の恋を、愛をもう知っているよ」
「愛美。好きです。大好きです」
高寿は名前を呼び捨てで言った。
「高寿。私も大好き」
高寿の瞳は、愛しさと切なさで潤んでいるようだ。愛美も同じ気持ちで見つめ返す。どちらからともなく顔が近づき、二人の唇が優しく触れあった。
そして、また見つめ合う視線は絡んで二人を吸い寄せた。
溢れる想いを確かめ合うように、深いキスをした。そして強く、そして長く抱きしめ合った。――これくらい、許されるよね。だって、こんなにも、こんなにも大好きなんだから。愛美は高寿の胸に顔を埋め、固く目を閉じた。
「僕は、いい恋人だった?」
高寿が聞いた。
「……うん、いい恋人やった」
愛美は顔を上げて高寿の顔を見た。
「今日まで楽しかった?」
「うん、めっちゃめっちゃ楽しかった」
愛美は高寿の横から抱きついた。
「もう放さへん」
「僕も放したくない」
「ごめんね、困るよね。コーヒーでも淹れるわ」
「いいよ。ここに居て」
高寿は愛美の肩に手を回した。
愛美は黙ってうなずいた。
別れ
ソファーに座って二人は見つめ合っていた。
午後十一時五十五分、別れの時が迫っていた。
「もう、行かなきゃいけないんだ」
高寿が穏やかに言う。
「うん」
涙が果てたと思っていた愛美は、また涙を流しながら答えた。
玄関で高寿は靴を履いた。
愛美は高寿の手を取って引き寄せ、背伸びをしてキスをした。高寿が抱きしめた。愛美も抱き返した。
「……もう、あかん。私……ここまでで、ええかな?」
離れてから愛美は、絞り出すように出た声は涙に濡れていた。
――高寿の温もりが、まだ腕の中に残っている。このまま時間が止まって欲しい。
「……うん」
高寿はドアを開けて外に出た。そしてドアを背にしてもたれて、マンションの通路から夜空を見上げた。
愛美はドアにすがり付くようにもたれて、頬をつけた。
ドア一枚を隔てて、高寿の静かな声が響いた。
「さようなら、愛美」
愛美も、ドアに額を押し付けたまま、途切れそうな声で。
「……さよなら、高寿」と答えた。
その時、部屋にドアの隙間から、まるで最後の別れを告げるかのように、鋭い光が一筋差し込み、すぐに消えた。
愛美は、後悔の念に駆られてドアを開けた。
しかし、そこにはもう高寿の姿はなかった。
ほんの数秒前まで確かにそこにいたはずの温もりが、跡形もなく消え去っていた。
愛美はしばらく冷たい廊下に立ちすくんでいたが、やがて力なく部屋へ戻り、玄関先に座り込んでしまった。
一度溢れ出した涙は、もう止めることができなかった。午前零時を過ぎた静まり返った部屋に、愛美の嗚咽だけがいつまでも響いていた。
落胆の日々
作品名:もうひとつの、ぼくは明日…… 作家名:高山 南寿



