もうひとつの、ぼくは明日……
そしてもう会えない愛美。
もう、こみ上げる気持ちを抑えきれない。
「じゃ、さようなら」
高寿は少しこわばっていた。
「えっ、はい。さようなら」
愛美も別れの言葉を口にした。
それは高寿にとっては最後の言葉だ。
愛した人と別れる最後の言葉を意味していた。
高寿は愛美の言葉を聞くと、そっけなく振り向いて歩きだした。
もう限界だった。涙が溢れてきたから。
涙を見せるわけにはいかない。
足早に歩く高寿の頬を涙が流れた。
三十メートルほど離れてから、振り向いて走りだしている軽自動車に手を振った。
気づかれなくていい、ただ、手を振りたかった。
だが、軽自動車は止まって、愛美が車から降りた。
そして思いっきり手を振り返してくれた。
「愛美ありがとう、愛してるよ。ずっと愛してるよ」
高寿は最初は声を落としていたが、最後は叫んでいた。
肩が痛くなるほど手を振って、そして背を向けて歩き出した。すれ違う人がいれば、見返すくらいぼろぼろに泣いていた。
高寿の三十日目 福寿と高寿
高寿は電車に乗っていた。背が高く端正な顔立ちで、爽やかな印象を与えていたが、その目にはどこか憂いが宿っていた。電車は一両編成で客が疎らだった。高寿は前方の左側ドア横の手すりにつかまって外を眺めていた。電車の窓に街並みが流れていく、その後ろをまだ低い日差しに照らされた山が連なってゆっくり過ぎていく、すれ違う下りの電車は二両編成で学生らしい若者が大勢乗っている。
高寿は思っていた。
もともと風情のある景色ではないけれど、今の僕にはどんな景色も色褪せて灰色にしか見えない。昨日、愛した人と別れた。次に会える日には、もう僕たちは恋人同士ではないんだ。
高寿は胸を押さえ、ため息をついた。そして窓の外を見た。
なぜこんな時に電車に乗っているのだろうか。一つの頼まれ事――手紙をある人物へ手渡すこと。時間と場所は指定されたが、相手が誰なのかは知らされていない。そもそも、なぜ手渡しなのだろう。いっそ、このまま引き返してしまいたい。……彼女は、どうしているだろうか。もう帰りたい。すぐに彼女のことを考えてしまう。僕の心は今も彼女のことでいっぱいだ。
『宝ヶ池、宝ヶ池です』
電車のアナウンスが流れた。
高寿は心の中で呟いた。
ああ、手紙を渡す約束の駅に着いたのか。
電車が減速してゆっくり駅に滑り込んでいく。ホームに、若い男女が向かい合って立っている。二人の横を数メートル通り過ぎて電車は止まった。
白いハーフコートを羽織ったロングボブの女が、手を振りながら後ろにさがっていく。こちらからは顔は見えない。
彼女と向かい合って立っている男はボサボサの髪に黒縁らしき眼鏡をかけており、どこか自分に似ている気がした。
既視感、というより何か違和感が湧き上がってくる。
まるでホームビデオに映る自分を見ているときのような、あの独特の感覚だ。
やがて、女がこちらに向き直り、ゆっくりと歩きだした。
ふわりと揺れる髪。
雪のような白い肌に、吸い込まれそうなほど大きなつぶらな瞳。
そして、思わず息をのむような華奢なスタイル。
それらが一瞬にして高寿の視界を奪った。
「えっ……」
高寿は、はそう言ったきり、身じろぎもできなくなっていた。
女はゆっくり電車の後部ドアから乗って、閉まったドアを背に立ち止まった。
電車が動き出すと、今乗って来たプラットホームのほうを一瞥した。
目に涙があふれ出て頬を伝った。
そのまま膝から崩れ落ち、声を出して泣き始めた。
高寿はようやく彼女のそばへ歩み寄り、片膝をついた。
そして、まるで言い慣れているように、その名を呼んだ。
「愛美」
女はぼろぼろに泣いていたが顔を上げ、不意に現れた青年を上目づかいに見た。
女の目が見開いた。
そして、女は遠ざかる駅のホームを振り返った。
もう、ホームは見えない。
青年に向き直って言った。
「あなたは、誰……? ……高寿なわけ、ないよね?」
女――福寿愛美は、涙を流したまま、目の前の高寿を困惑した表情で見つめた。
「僕は、僕は……」
高寿は、福寿を見ながらこみ上げるものを抑えきれず、口ごもった。
少しの沈黙の後、高寿は心を落ち着けるよう胸に手をあてて言った。
「僕は君に手紙を渡すために来た……」
「手紙? 誰からの? いや、その前にあなたは高寿なんだよね?」
「僕は南山高寿です」
二人はその場で立ち上がった。
「でも、私、今駅で高寿と別れたばかりなんだよ。さっきまで駅で話してた。高寿が二人になってる」
「二人って、……さっきホームにいた人?」
愛美は無言でうなずいた。
「僕はここに来たのは初めてなんだ。今日は、まだ愛美とはめぐり会っていない。どうして君が僕を知ってるんだろう」
「駅で別れた高寿は、今日出会ったばっかり。そして私にとっては最後の日。私にとっては二十歳の高寿と別れて会えなくなる日」
「最後の日?」
高寿は考えた。さっき、いたのは僕だというのか? なにが起こってる。
別れたと言っている愛美だけがボロ泣き。さっきの僕に似た男は泣いてはいなかった。目の前の愛美は大阪弁じゃない。『高寿は今日出会ったばっかり。そして私にとっては最後の日』と言っていた。この状況は、昨日の僕の状況と同じ。まさかそう言うことか? この人は僕の知ってる愛美じゃないんだ
「福寿さん、君はこの世界に遊びに来た次元の旅人なんじゃない?」
「えっ、……どうしてわかるの?」
福寿は目を見開いた。
「僕も三十日間の旅を終えて今日帰る次元の旅人なんだ」
「えっ、あなたはこの世界の人じゃないの、私と同じ世界の人?」
「そう、あなたも僕と同じ世界の福寿愛美さんということですね?」
「二つの世界に同じ人物がいるということ?」
福寿は僕に質問するというより自問しているようだった。
「そういうことですね、僕はこの世界の愛美と恋人になるために、この世界に来ていた」
「私はこの世界の高寿と恋人になった」
「同じようなことが起こっていたんだ」
高寿は理解できた気がした。
「そうなの、あなたも今日、彼女に知られずお別れしたんですか?」
「僕の場合は昨日なんです。今日は出会えず昨日だったんです」
「そう、もっと会いたかったですよね。昨日のうちに帰らなかったんですか?」
「それが、今日手紙を渡してほしいと頼まれていて、この電車に乗ったんです。手紙を渡すのは、宝ヶ池駅で乗ってくる人と言われました。誰かと聞いたんですが、会えばわかるとしか教えてもらってなくて」
「それ不親切ですね。誰に頼まれたんですか」
愛美が聞いた。
「僕が十五歳のときに会った二十五歳の愛美に頼まれたんです」
「えと、二十五歳のこの世界の愛美さんですか、私とは接点ないですよ」
愛美は首を傾げた。
「そうですね、なんの手紙なんだろう」
手紙
二人は京阪電車の三条駅で降りて、鴨川沿いの喫茶店に行った。
隅のほうの窓際の席に座った。鴨川に座っているカップルが見える。
高寿は福寿に、同じ旅人である福寿に手紙を渡した。
福寿が封筒を開けると、そこには更に小さめの封筒が二つ入っていた。
一つには『愛美へ 高寿より』と記され、もう一つには『高寿へ 愛美より』と記されていた。
作品名:もうひとつの、ぼくは明日…… 作家名:高山 南寿



