もうひとつの、ぼくは明日……
「へぇー、そうなんや……パリかぁ」
自分の声が、思った以上に低く沈んでいることに愛美は気づいた。ズキン、と胸の奥が小さく痛む。――嫌や。南山くんが、パリに戻ってしまうのは。その単純な事実に気づいてしまい、動揺を隠すように愛美はわざと明るい声を出した。
「おかわりしょ。こっちでは仕事しないん?」
愛美は、チューハイを頼んだ。
「実はどうしようかなと思ってて、美大の付属の高校の美術の先生っていうか、講師なんだけど、声をかけてもらってるんだ。応募はしたんだ」
「女子高生に惚れられるで、罪作りな先生になるんちゃう」
愛美の声が明るくなっている。
「そんなことないよ。もともとダサいほうだし、もうおっさんと見られると思う。いや、講師決まったわけじゃない」
「そうやね、でも決まったら、こっちで暮らすということ?」
「そうだね」
「だったら、また、イラスト頼める?」
そう言う愛美は笑顔だった。
「えっ、毎年? でもまたモデルになってもらったらいいかな」
「いや、それはもうかんべんして」
二人は顔を見合わせて笑った。それからも、しばらく他愛のない話をした。
けっこうお腹はいっぱいになった。相変わらず店は混んでいて、待っている人もいた。愛美はもうぼちぼち出ないとあかんなと思ったが、もう少し話がしたかった。もう少し南山が知りたかった。
「もう少し飲みたいね、軍資金なくなった?」
南山が愛美を覗き込む。
「そんなに貰ったわけじゃないし」
「じゃ、僕が出すからもう一軒行く?」
「うん」
愛美は素直に返事した。
「カフェバーとか行こうか」
「いいけど」
「ステーションヒルに行ってみようか」
「まだ行ったことあらへん、行ってみたい」
キス
二人は十九階のカフェバーの窓際に座った。照明を落とした店からは、夜景がきれいだった。窓際の席についた。
愛美は、アルコール少な目がいいと思って、トロピカルカクテルを頼んだ。南山もロングドリンクを頼んだ。
「すごく遠くまで見えるんや」
愛美が遠くを眺めている。
「そうだね思ったよりよく見える。あの辺は梅田の高層ビルだね」
「ちょっと離れたとこにある、あの高そうなやつは?」
愛美が少し左側の方を指さしている。
「あれはきっと、あべのハルカスだと思う」
「そうなんや。あっちからもこっちが見えるのかな?」
「こんど行ってみようか?」
「うん」
愛美は素直に返事した。
それから二人は、子供の頃の話や趣味の話をした。南山はパリでの出来事もいっぱい話した。二人ともカクテルを数杯飲んでいた。
「ちょっと遅くなっちゃったかな」
高寿は時計を見た。
「大丈夫、住んでるのすぐそこやから」
「送るよ」
「うん、ありがとう」
エレベータに乗った。二人っきりだった。
愛美はなんとなく南山の横顔を見ていた。
そして思い出した、淡路島のカフェで見た高寿の横顔を。
南山は横顔を見られているのに気付いて、愛美を見た。目が合った。
愛美はあわてて正面を向いた。南山の視線を頬に感じた。
愛美は南山の方を見た。
南山の顔がゆっくり近付いてくるのがわかった。
息が止まる。逃げようと思えば逃げられたはずなのに、愛美の足は床に縫い付けられたように動かなかった。
そして、柔らかな感触が唇に触れた。
愛美は高寿を思い出したことと南山とキスしたことに動揺して、視線を下げていた。
「ごめん」
南山は愛美がうつむくのを見て、我に返ったように謝った。
愛美は謝らないでと思った。
気まずい空気になった。
一階に着いて愛美は言った。
「ごめんなさい。やっぱり一人で帰るわ」
後ろに下がりながら手を振る愛美に、南山は少し驚いたような顔をした。
そして「愛美」とつぶやいた。
愛美にもその声は聞こえた。知らないふりで愛美はその場を立ち去った。南山は一人エレベータホ―ルに取り残された。
今、呼び捨てにされた。いや、そうやない。私のことやない。
愛美は足早に歩いた。涙が出てきた。
私なんで泣いてるの。
わからない。
私何を求めてるんやろう。
私も南山さんもお互いを見て、前の恋人のこと思い出してるやん。
好きなのはこの人なん。
やっぱり高寿が好きなはずや。
何してんの私。
なんで涙なんか出てきたん。
南山さんが好きなん?
南山さんを見れば見るほど高寿を思い出すん?
南山さんは私を見て、向こうの愛美さんを思い出すん?
そんなん無理やわ。
お酒も入っていたし、考えはどうどう巡りだった。
それから南山には連絡しなかった。向こうからも連絡はなかった。
別離
南山は、実家で自分の部屋のベッドに寝転んでいた。
部屋は背の高い彼には少し狭い感じだった。書き溜めたキャンバスが、机の横にいくつも重ねて立てかけてある。スケッチブックも棚にびっしり詰まってる。絵の具の臭いもした。
天井を見上げながら考えた。
僕はもう、愛美じゃなくて福寿さんが好きなのか?
愛美のことを、そんな簡単に忘れるわけがない。
だったら、愛美の代わりを福寿さんに求めたのか?
あのとき、エレベータホールで、福寿さんが後ろにさがって、手を振るのを見て、宝ヶ池の駅で別れた時の愛美を思い出した。
福寿さん、何か感じてたよな。名前を口にするなんてだめだな。
合わせる顔ない。
なんか謝りようもない気がするし、どうしようかな。
なんか福寿さんのことばかり考えてる気がする。
そうだ、高校の講師の件、連絡来てるかな。
南山はベッドから起き上がって、机のスマホを取ろうとした。
机の本棚に置いてある小箱が目に留まった。
十歳のとき、愛美からあずかった箱だ。
なんとなく手に取ってみた。
箱をながめていると、ふと底板のわずかなズレに気づく。なんだろうと思い、慎重に調べてみると……そこには隠された空間と、一通の手紙があった。
それは南山が過去に送った手紙の返事だった。
向こうの世界の愛美からのものだった。
高寿、元気にしてる?
私は元気だよ。
この手紙に気づくかどうかわからないけど、どうしても手紙の返事を書きたかった。
高寿の手紙、嬉しかった。
あのタイミングで、手紙もらうなんて夢にも思わなかった。
ちょっとずるい。
だからめっちゃ泣いた。
嬉しくて悲しくて、めっちゃ泣いたよ。
また二十歳の高寿に逢いたい。
高寿は今何歳ですか?
私は実はもう三十歳です。
もうすぐ十歳の高寿に会いに行きます。
それはそれで楽しみです。
でもそれが終われば、後は五歳の高寿に会うのが最後。
最後と思うと寂しいし、命を助けるプレッシャーも感じてます。
高寿に助けられたから今の私がいるんで、私もちゃんと責任を果たします。
手紙を届けてくれた私の世界の南山さんには、手紙を渡されたとき以来会っていません。
連絡先も交換しなかったので手紙は私の分だけです。
なので、そっちの世界の愛美さんには申し訳ないです。
謝ってたと伝えてください。
二十歳のあの日々、本当に幸せでした。
高寿のこと忘れません。
愛してるよ、高寿
さようなら 愛美
南山は思った。
僕はまだ愛美とつながってる。十歳の時、愛美が「あなたは必ずなれるよ、ものを創る人に」と言ってくれたからがんばってきた。愛美を助ける日まで、もっとちゃんと物を創る人になろう。
作品名:もうひとつの、ぼくは明日…… 作家名:高山 南寿



