もうひとつの、ぼくは明日……
高寿
一日目 二〇二〇年二月 愛美二十歳
陽光きらめく山間の農道を、白い軽自動車がおぼつかない動きで進んでいく。
車内には二人の女性。
運転席では、肩までのロングボブを揺らす若い女性が、ハンドルを握る手に力を込めすぎて白くなっている。
その横顔には、隠せない緊張が浮かんでいた。
「愛(え)美(み)、そんなに腕を突っ張っていたら、ちゃんとハンドル切られへんよ。危ない、事故るで」
助手席から、ロングヘアの友紀が声をかけた。
「もう事故る事故る、もういつ脱輪してもおかしくないわ。なあ、この道で合ってる? 友(ゆ)紀(き)ちゃん」
愛美が十歳も年上の従姉を「友紀ちゃん」と呼ぶのは、小さい頃からよく遊んでもらっており、昔からの名残なのだ。実際のところ、友紀は十歳も離れているようには見えない若々しさがある。
「だいたいこの方向やと思うけど」
友紀はスマホを覗きながら適当に言ってる。
「道、狭いねんけど」
これ以上狭いと怖い。友紀ちゃんの車やし。
運転初心者の愛美には、車幅と道幅がほぼ同じに見えてた。
「確かに狭いなぁ、ゆっくりいったらええから」
友紀はのんびり構えている。
「もう運転してくれたらええのに。初心者やで」
愛美は本音が出てしまったと思った。
「いやいや、私、右足捻挫してるし。ついてきただけで感謝しぃ」
「車心配やから付いて来ただけやろ。それに、さっき割と普通に歩いてたで」
愛美は前方を直視している。
「車が心配というより、たまには愛美とドライブもいいなぁと思て」
友紀は両手をあげて伸びをしている。
「ドライブなんて気分とちゃう。京街道の道標調べに来てるんやなかったら、こんな狭いとこけえへん。ここ農道ていうか、畔道とちゃう?」
軽い車とはいえ、その揺れは舗装された道路とはあきらかに違った。
「いっそ、この田んぼ突っ切ったら早いんちゃう」
気だるげに友紀が答える。
「オフロード車やないし、やっぱり戻ろう、このT字路でUターンしよ」
窓を開けてバックする。
友紀はスマホを見てる。
その時、車体が大きくグラリと傾いた。腹の底を擦るような鈍い音が足元に響く。
「あっ」
愛美の口から短い悲鳴が漏れる。
「えっ?」
助手席の友紀も素っ頓狂な声を上げた。
右前のタイヤが、完全に畔の溝に落ち込んでいる。エンジンを吹かしても、タイヤは虚しく空転するだけだ。
「うそ……どないしょ……」
愛美はハンドルを握ったまま、途方に暮れた。
「救援サービス使うしかないやん」
そう言いながら友紀はあきれ顔で外へ出る。
「タイヤ空回りしてるわ」
友紀は車の下を覗き込んでる。
愛美も助手席側から降りた。
「こんな場所、すぐに来てくれるかな。押したら上がれへん?」
「いや、押すにしたって私一人やし、足も捻挫してるし、周りに誰もいいひんし……。あっ、誰か来たわ」
友紀が指さす先、デイパックを背負った一人の青年が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
背が高く、端正な顔立ち。爽やかな印象の青年だった。
なぜか愛美は、彼に初めて会った気がしなかった。
まるで昔どこかで会ったことがあるような、不思議な親しみを覚えた。
「落ちましたね」
そんなこと 、爽やかな感じで言われても、と愛美は思った。
愛美が見とれてるので、友紀が尋ねた。
「これ、押したら上がりますか?」
友紀が尋ねると、青年は落ち着いた声で答えた。
「一度、試してみましょうか」
「どうすんの?」
友紀が聞き返す。
友紀ちゃん、もうタメ口やんと愛美は心の中でツッコミを入れた。
「タイヤが空転しないようハンドルを右に切って溝の横にタイヤがきつく当たるようにして、それでバックしてください」
それを聞いていた愛美は返事した
「はい」
愛美は助手席側から車に乗った。
言われるようにハンドルが止まるまで右に切って、言われた通りにアクセルをじわりと踏み込むと、先ほどまで空しく回っていたタイヤが、今度は力強く地面を掴む感触があった。車体が軋みながら、ゆっくりと、しかし確実に溝から這い上がっていくのがわかる。
「そう、ゆっくりバックしてゆっくりね」
軽自動車は道に上がった。
やったー! と愛美は心で叫んだ。
「ストップ、後輪が危なくなるから」
「ありがとうございます!」
愛美はパーキングブレーキをかけた。
「いえ、どういたしまして。気をつけてくださいね」
見た目もだけど話し方も誠実そう。声のトーンが落ち着いている。
少し話がしたいと愛美は思った。
「助けてもらってありがとう。ハイキングとかですか?」
友紀が話しかける。
――友紀ちゃんのフォロー来た!
「その先に、京街道の道標があるんですよ。それの写真を撮ってきたんです」
来た方向を振りかえって彼が指差した。
友紀は続けて尋ねた。
「そうですか。私たち探してたんですよ道標。そっちにあるんですね?」
「近くまで行けますよ。街道沿いに広い場所があるので車も止められると思いますよ」
「愛美、行けるって。この道でええみたい」
ますます前に会ったことあるような気がしてきた。
いや、とりあえずなんか話したい。
愛美は運転席側のドアから降りて青年のそばに行った。
「ありがとうございました」
だめだ、何も言えない。
青年のほうから話してくれた。
「田んぼを抜けたら市街地になるけど、狭いところあるからミラーとか気をつけたほうがいいですよ」
「えっ、はい。気をつけます。ありがとう」
イケメンに注意されたら素直にそう思うわ。
気ぃつけるわ。
あっ、なんか話したい、どうしよう、頭が真っ白や。
えーと、えーと……
「愛美、ほな行こか」
友紀ちゃーん、終わらすか、話したいのに。
「じゃあ、さようなら」
そう挨拶した彼の瞳がすごく寂しそうに見えた。
「えっ、はい。さようなら」
愛美は残念と思いながら別れを告げた。
彼は少しうつむき加減で、車と反対方向に歩き出した。
「ええ男やったな、愛美と同い年くらいやな、あれは」
そう言うと友紀は車に乗った。
「また、会えへんかな……」
愛美は返事とも言えない返事をした。
車を発進させ、ルームミラーに目をやった瞬間、愛美は息をのんだ。
彼が、こちらに向かって大きく手を振っているのが見えた。
次の瞬間、愛美は無意識にブレーキを踏み、ドアを開けて外に飛び出していた。
彼の姿に向かって、力いっぱい手を振り返す。
「ありがとう!」
叫ばずにはいられなかった。
胸の奥が、きゅっと締め付けられるようにざわつく。
――また、会いたい。
もっと話をしたい。
でも、こんな偶然、二度とないのかもしれない。
言いようのない残念な気持ちが、愛美の心を包んだ。
二日目
図書館のフロアには書架が整然と並び、子供も大人も黙々と本を選んでいる。
静寂がフロアを支配している。
小さな女の子が数冊の本を返却カウンターに置いていく。
「ご利用ありがとうございました」
愛美は本の外観を見て、ページをパラパラとめくり、汚れや挟み込んでる物がないか確認した。そして資料番号のバーコードをスキャンして、返却用のワゴンにジャンル別に本を並べた。
「愛美ちゃん、今日A勤だよね、お疲れ様」
大野が笑顔で話しかけてきた。
作品名:もうひとつの、ぼくは明日…… 作家名:高山 南寿



