天空天河 十
十七 誉王救出の前
長蘇を抱き上げて運ぶ靖王が、ゆっくりと書房の寝台の夜具の上にその身体を下ろす。
抱き上げた時に、ふと思った事だが、以前抱き上げた時よりも、長蘇の身体は更に軽く感じられた。
長蘇は色々と食べているが、その割に太っていく様子も無く、細い身体が寧ろ、更に細身になっていく気がし、食べた物は何処に消えていくのかと、不思議に思っていた。
玉の冠は既に外されて、自由を得た長蘇の黒髪が、乱れていた。
靖王は乱れた髪を撫で、顔にかからぬよう整えるが、長蘇が目を覚ます様子は無い。
長蘇は、茶に仕込んだ薬とは別の薬を飲まされて、今は深く眠っている。
靖王の計画通りだった。
「小殊、騙してすまぬ。
小殊が静かに大人しくする程に、私の胸騒ぎが大きくなる。
こうして小殊を眠らせてしまっても、どういう訳か不安ばかりが大きくなるのだ。
、、、、、私は心配性か?、、、ははは、、、小殊にはよく笑われたな。」
━━茶に仕込んだ薬で疲れさせ、更に強い眠薬で昏睡させて、数日は深く眠り続ける筈だ。
こうまでしても、私は小殊の安全を最優先にしたいのだ。
、、、目が覚めた時、小殊は怒るだろうか。━━
「小殊は分かっていて、私の策に乗ってくれたのだのだろう?。」
靖王は眠る長蘇に、そう、話しかけてみる。
長蘇は明らかに、茶に薬が入っているのは、分かっていて飲み干した。
靖王でもそれは分かるが、友に薬を盛ってしまった申し訳なさで居た堪れない。
靖王の心の中で、数十数百の言い訳が巡っている。
━━小殊も国と民の未来を選ぶ筈だ。━━
「小殊が私だったら、どうする?。
きっと同じ事をすると、私は思うのだが。」
━━私の『中に居る』小殊という策士の謀だ。━━
長蘇が靖王の中の長蘇に嵌められるとは、何とも滑稽だが。
━━分かっていて小殊は騙されてくれている。
互いに信じ合って、背中を任せ合っていた頃の気持ちに小殊も戻りたかったのだ。
小殊は私に、小殊自身の心配などしてほしくないに違いない。
恐らく、『何もせず金陵で待つ』のか、今の小殊のするべき事なのだろう。
だから、薬が入っているのを分かっていて、私の茶を飲んだのだ。
大きな作戦の中で、『二人共、きっちり本分をこなしている』、そう思い合いたかった。━━
「私も小殊も、心に恥じる事無く、この故国に殉ずる事が出来れば、何処で散ろうと本望なのだろう?。
私も小殊も、民が平穏に暮らせれば、何よりだと。
都ばかりではなく、梁の隅々まで平安な世になれば。
、、、まぁ私は、どんな場所だろうと小殊と過ごせれば、それで良いと思っているが。」
璇璣公主が憑依した夏江に、懸鏡司で付けられた、長蘇の胸から腹部にある不気味な『魔』の痣は、靖王の龍の力によるものか、今は綺麗に消えていた。
靖王の力を長蘇に施したのだ。
その力に長蘇は、起き上がる事が出来ぬほど疲れ、今は眠薬によって熟睡、、というか昏睡に近い。
━━今までは小殊の作戦で動いていた。
小殊ときたら、いつも本当に酷い。
刻限ギリギリで作戦の本質を教えるのだ。
小殊が矢面になると、私が止めるだろうと。
それを避けるために刻限ギリギリに、私には教えるのだ。
昔なら、互いの本分を果たす為に、『小殊は小殊で上手くやっている』という安心感があり、気にならなかったが。
今は、小殊の身体は儚く、私の居ないところで、霞の様に消えてしまうのでは無いかと思えて。
一時も離れていたくない。━━
「、、、、良いか、小殊。
私が留守の間、絶対にここから離れてはならぬぞ。
これ迄はずっと、小殊の作戦に沿って動いてきた。
この度は私の言う事を聞いてもらうぞ。
良いか、この部屋から一歩でも出てみろ、私はお前と絶交する。」
絶交は本気だった。
「本気だからな。」
熟睡している長蘇には、靖王の言葉は届かないだろう。
だが何故か、長蘇は聞いている気がして、念を押すように言った。
靖王は直ぐに、自分のしている事が愚かに思えて、吐いた言葉を打ち消したい気持ちになり、目を閉じて、握った長蘇の掌を包み、自分の頬に当てた。
『フフ、、、景琰、分かってる、
お前に怒られるのは、正直怖い』
長蘇の声が聞こえた。
目を開けて微笑む長蘇がそう言っている様に聞こえた。
しかし、我に返れば、目の前の長蘇は目を閉じて、静かに深く眠っている。
━━小殊が言う筈が無い。
愛しいと思う程に幻まで聞こえたか。━━
「小殊。
どうか、静かにここで待っていて。
私は直ぐに、ここへ帰ってくるから。」
━━そうだ、目的を果たし、早く戻ろう。
───小殊の元に。━━
長蘇の掌にそっと口付けした。
大切な友が、無事でここに居るように、祈りを込めて。
長蘇が清々しく目覚め、ここで靖王を迎えてくれる様に。
長蘇の身体に布団を掛けてやる。
長蘇の黒い爪は、龍の力で、綺麗に元通りになった。
腹部の禍々しく醜い『魔』の痣も、靖王の龍の力の影響で、消え去り、もう何の痕跡もない。
━━私が戻るまで、眠っていてくれたなら、飽きるまで寝顔を見ていたい。
そして耳元でそっと名を呼び、目覚めさせたい。
小殊が目覚めたならば、小殊の身支度を整えて、指馴染みの良いこの黒髪を、丁寧に梳いてやりたい。━━
いやそれとも、靖王が戻る前に長蘇は目覚め、靖王の帰りを、この書房で待っているだろうか。
━━目覚めている小殊は私を、茶で迎えてくれるだろうか。
君の好きな峰天愁で。━━
靖王は都の峰天愁を買い占めた。
長蘇が飲みたいと思えば、この靖王府に山ほどもあるのだ。
任務が終わったら、皇宮より先にここに来て
書房を目指して早足で向えば
辺りに立ちこめる香(かぐわ)しい茶の香り
扉を開ければ
そこにはいつもの出で立ちで
微笑む大切な者が
私に茶を淹れている
そんな普通の情景が、心に浮かんでくる
━━なに、誉王の救出は、わけもない。
早々に任務を全うして、小殊の元へ戻らねば。━━
心配よりも楽しみが勝り、ようやく靖王の重い腰が動いた。
これから皇宮へ行き、聖旨を受けて、そのまま直ぐに金陵を立つ予定だ。
兵符を預かる事は断った。
どの軍の中にも夏江の『魔』兵は潜んでいる。
兵符でうっかり軍を動かしたら、その中にいる『魔』兵に、背中から刺されかねない。
靖王は颯爽と立ち上がり、力強い足取りは書房の入り口へ。
扉に手を掛けて、今一度、眠る長蘇を振り返った。
長蘇は静かに眠っている。
━━ハハハ、、、この状態の小殊を心配するとは、私は頭が可怪(おか)しいようだ。
小殊は大人しく眠っているだろう。━━
「小殊、、、では行ってくる。」
それでも、眠る長蘇に声を掛けずにはいられない。
『用心しろよ』
靖王の耳に長蘇の声が。
靖王は自嘲気味に笑い、そっと扉を閉めた。
────十七章 誉王救出の前 終─────



