天空天河 十
黎綱はいつも自分が座る下座に跪き、まるで長蘇が肘掛けにいつも通りに座っているかのように、三度叩頭した。
そして黎綱は、暫くその場に蹲(うずくま)ったまま、動けなかった。
その間、涙は止まらず、ぽたぽたと床に落ちた。
黎綱は意を決し、頬の涙を拭き、そして床に落ちた涙を、ごしごしと腕で拭い、立ち上がった。
黎綱は丁寧に拱手をして、部屋を去った。
黎綱は、決意をして歩き出しても、頬を伝う涙は止まらなかった。
「黎綱。」
背後から女人の声で呼ばれて、急いで涙を拭い、振り返った。
長蘇や、蘇宅の配下の食事を担っている、吉という女だった。
「吉さん、どうしました?。」
吉は手に、書状を持っていた。
「宗主にね、言われてたんだよ。
あんたが泣いてたら、これを渡すようにって。」
「ぇ?。」
黎綱は、二つ折りに畳まれた封筒を受け取った。
吉は心配げに黎綱の様子を見ていた。
黎綱は開いた紙の内容を読み、また泣き崩れてしまった。
書状は、長蘇の指示書だった。
表立って江左盟を名乗る場所は、全て閉鎖し近寄らせぬ事。
表立っていない商いはそれぞれ独立させて、続けたい者には続けさせ、辞めたい者は引き止めるなと。
江湖で自由気ままに生きたい者は江湖に行き、志ある者は靖王の元に。
蘇宅にある物で、懐に持ち出せる物ならば、持ち出しても良い。
長蘇の私物は黎綱の好きにして良い、と。
最後に、黎綱に、
身体を厭(いと)え、と。
黎綱はどこかで、長蘇はもう一度、蘇宅に戻って来るのではないか、いつかまたこの世の何処かで長蘇に会えるのではないか、と一縷の希望を抱いていたが、それは黎綱の中で、粉々に砕けた。
絶望に、黎綱は吉の前で男泣きしてしまった。
吉は、手紙に何が書いてあったのかは分からないが、何かとんでもない内容だったのは、察せられた。
泣く黎綱に長蘇が用意した書状ならば、慰めるか力付ける手紙かと、吉は思っていたが、そうでは無かった様だ。
目の前で情けなく泣く黎綱に、かける言葉が見つからず、ただ無言で背中を擦った。
気の毒に思って寄り添ったのだ。
黎綱はもう立ち上がれなのでは無いかと危惧したが、四半刻もしなかっただろうか。
「ありがとう、吉さん。
宗主の指示を全うしないとな。」
黎綱はそう言ったが、泣き顔の晴れぬ顔で、吉を気遣いながら、事のあらましを話し、吉を驚かせた。
吉に話していくうちに、黎綱の顔は、男泣きしていた者の顔ではなく、長蘇の不在を埋めようとしている、責任者の顔になっていった。
「皆に話さねば、吉さん、皆を集めてくれ。
本部や支部にも伝書鳩で伝えねば。」
きりり、と締まった顔になり、皆を集める為に忙しなく去っていった。
後日談として。
長蘇の指示通りに、迅速に江左盟は解散をし、本部支部、江左盟が表立って商う店は廃業した。
驚く程、見事に黎綱は動いた。
不満を洩らし、ごねて命を聞こうとしない盟員も見捨てず、強硬な手段を取ったり、或いはなだめたりと、黎綱の働きで、江左盟の盟員は犠牲者を一人も出さなかった。
長蘇は、江左盟の者が、赤焔軍兵衛の一族として家族や多くの関係者が血を流した、あの赤焔事案の二の舞いになる事を恐れたのだ。
それが、ずっと長蘇を側で見ていた黎綱には、分かっていた。
その後、黎綱には威厳がある、と、江左盟の再興に、黎綱を盟主に、という声が上がったが、黎綱は固辞して、行方を晦(くら)ませた。
さて、話は戻り。
一方で靖王は。
靖王は皇宮で聖旨を受けた。
大殿には、陛下は居らず、朝臣もまばら、役人ほとんど居ない。
ただ一人、靖王が大殿で待っていると、背後から高湛と二人の大監が現れた。
高湛は一段高い所から靖王を振り返る。
靖王は跪き、聖旨を受けた。
朝臣の中でも、沈追が一番前で、聖旨の受け取りを見届けた。
沈追をはじめ、ここ最近、付き合いを始めた者たちばかりだ。
皆、梅長蘇にお墨付きをもらった者ばかりだった。
一方、誉王派の者も、一人二人位は居るだろうと、靖王は思っていたが、一人も居ない。
誉王に見切りを付けたか、ばつが悪くて来られないのだろう。
靖王が聖旨を手に立ち上がると、静々と高湛が近付いてきた。
「靖王殿下。」
恭しく挨拶する高湛。
「こちらを静妃娘娘からお預かりしております。
お薬と点心だそうですよ。
皆様、殿下のご無事を願っております。」
そう言って、高湛は袖から出した布袋を二つを、靖王に渡した。
靖王は受け取り、拱手をして礼をする。
それに対して高湛もまた、袖で顔を隠すように、恭しく礼をした。
礼を終えた高湛に、靖王が話しかけた。
「陛下の下へ伺うべきですが、本日は刻を争う故、失礼を致します。任務が終われば報告に。
、、、あの、、母をよろしく頼みます。」
高湛は柔らかに微笑んで、大殿を後にした。
その後、沈追らから声をかけられ、『無事のご帰還を』と力強い拱手を受け、靖王も力強く拱手を返す。
そして靖王は、颯爽と大殿を後にした。
沈追らは、『さすがは我らの殿下だ』と、その後ろ姿を惚れ惚れと見送った。
皇后から何かしらあるかと思ったが、何も無く。
(行くつもりも会うつもりも無かったが)
皇后の寝殿は今や、冷宮の様になっており、誉王を気遣う余裕は無い。
宮門では、靖王の配下が馬を引いて待っており、靖王はそのまま自分の愛馬に跨り、南門へと向かった。
南門までの道には、靖王を一目見ようとする、金陵の人々が並んでいた。
これ迄、皇宮はもとより、金陵でも、民衆は冷やかで、靖王など見向きもしなかった。
なのに、人々のこの変わり様は何だ。
南門までは、整然と両脇に並んだ壮行の人々で、道を作っていた。
靖王は世の習いにうんざりとし、愛馬の足を速めた。
━━この所業は、小殊、お前か?。━━
人々の間で、何かが噂され、だから衆民はこれ程集まってきた。
してやったりと、さらりと微笑む長蘇の顔が浮かんだ。
━━小殊は余計な事を。
小殊は私が皇太子になるのを、まだ諦めていなかったか。
皇太子になぞ絶対にならぬと、何度も言っているのに。━━
衆民がこれ程騒いで、誰かが上奏したならば、朝議にも上がろう。
煩わしい事だ、と靖王は思った。
南門の広間では、靖王府の騎馬兵が、靖王の到着を、待っていた。
靖王は振り返る事無く、門を潜り抜け、騎馬兵達は、靖王の後に続いた。
民衆は城門の上にまで押し寄せていた。
「龍だ!!。」
「赤い龍だ!!!。」
「ぇ、どこに?。」
大きな真紅の龍が、城門すれすれを飛んで、靖王の後を追って行った。
龍が見える者と見えない者。
「黒い龍だ!!!。」
「赤い龍と黒い龍が、並んで靖王を守っているぞ!!!。」
少し遅れてその後ろから、赤い龍の半分程の大きさの黒い龍が、城門の上を飛んで行き、赤い龍に並んだ。



