光と影
普通に働いて得られる給金で買えるほど、薬というものは安くない。だからといって、親父が病で弱っていくのを指を咥えて見ていることなど、あれから百年以上経った今でも出来そうにない。
どうすれば良かったかなんて、今も正解はわからない。
わからないが、この子供はまだ人に手を挙げようとはしていない。その目には恐怖を感じる心が残っている。理性が残っている。俺とは、違うのだ。
道を踏み外しかけているが、まだ引き返せる。
「己に恥じない選択をしろ」
どの口が言うんだ、と我ながら笑えてくる。
それでも、伝えるべきだと思った。
こちらの言葉に、少年は歯噛みして俯く。
どんな事情があるかは知らないが、頼れる大人もいない中金が必要な状況にあるのだろう。
「…そんなこと……おれだってわかってる…!」
悔しそうに呟く少年の肩を軽く押して座るように促し、向かい合った。
「得意なことはなんだ?それだけ手先が器用なら何かあるだろう」
「…そんなものない」
「何か作ったりしないのか?俺の知り合いに壺作りが趣味な奴がいるが、それなりに売れるらしいぞ」
「壺……あ、木彫りなら…好きだけど…」
「ほう?ならば技を磨け。誰にも真似できないものを作る努力をしろ」
一瞬光を宿した幼い双眸だったが、努力の一言に反発の色が滲む。
「…誰が買うんだよ」
その様子から察するに、一度は自分の作品を金に変えてみようとしたのであろうことが窺えて。
猗窩座は口角を緩めて肩を竦めてみせた。
「さあな。壺を買うような変人が買うんじゃないか?金持ちは変な奴が多いからな」
「……なんだよそれ」
こちらの無責任な言葉に少年は拍子抜けしたように失笑する。
その瞳はもう絶望していない。何か光の筋を見つけたような、そんな色を称えていた。
猗窩座は用は済んだとばかりに立ち上がり、歩き出そうとして「ああそうだ」と思い出したように手のひらに収めていた財布を見せる。
「これは持ち主に返しておくぞ」
「あ…!いつの間にそれっ…」
「小僧、」
顔色を変えて懐を押さえる少年を見下ろす。
「女などという弱者を困らせても、お前がつまらん男になるだけだ。見誤るな」
「……、」
少年は何か言いたそうに口を開きかけたが、猗窩座は背を向けてその場を離れた。
財布を盗られた女の気配を思い出し、微弱なそれを辿って家を見つける。
既に辺りは暗くなり、室内には明かりが灯っていた。玄関先に財布を置いて離れようとしたが、これはこれで誰かに拾われてしまうのではと思い逡巡する。
ふと、窓が少しだけ空いていることに気づき、そこからぽとりと室内に財布を落とし込んだ。
慣れないことをしたせいか、どっと疲れた気分だ。
この町にいるといらないことばかり思い出す。精神衛生上よろしくないと判断し、郊外に足を向けた。
あの子供が捕まらずに済んでいるのは、おそらくこれまでも女や老人を相手にしていたからだろう。考えてみれば、体格も筋力も自身に勝る大人の男を相手取る必要などないのだ。
確かに俺は間抜けだったらしい。
さて、少年に努力しろなどと発破をかけた手前、己も武を磨かなくては示しがつかないというものだ。
猗窩座は町を抜けた先に聳える山を、暗闇の中見据えた。
+++
それから数日が過ぎた。
鬼になってから、始祖である鬼舞辻無惨から度々咎められていたことがある。
それは鍛錬に没頭するあまり、時間の経過を失念して空腹に鈍感になるということ。
もともと探しものという目的から人里離れた土地に赴くことが多かっただけに、気がついたら腹が減っていたという事態も少なくなかった。
そのため多少の空腹は気にならず、放置が常態化された結果飢餓一歩手前になるなどということもしばしば。
そして、今がまさにそうだった。
山に籠って鍛錬に勤しみ、充実した時間と引き換えに、意識を手放しかけていた。
山を降りれば、人間がわらわらいる。
…食糧が、豊富にある。
キリのいいところまでと思い、間合いにあった最後の巨大な岩石を拳で打ち砕いて、ゆらりと猗窩座は構えを解いた。
疲労ではなく、抑えがたい衝動から呼吸が乱れている。唾液がしとどに溢れ、瞳孔が開く。
頭が働かない。ただ、腹が減って仕方がなかった。
無意識に足が町の方に向き、一歩踏み出したところで腰元からちりん、と乾いた小さな鈴の音が響き、意識が暗転する寸手のところで我に返る。
「っ……ああ、そうだな。杏寿郎…」
いつしか煉獄から貰い受けた、腰紐に括り付けた赤い人形を震える指先でそっと撫でた。こんな馬鹿げた不注意で、人を襲わないという約束を破ってたまるか。
冷や汗が滲み出る中猗窩座は目を伏せ、周囲の闘気を探る。
山を少し奥に進めば、鹿か猪あたりがいそうだ。
少しでも気を抜けば理性が消え去りそうな感覚に、歯を食いしばる。全身に意識を張り巡らせ、集中を切らさないよう深く呼吸をして、顔を上げた。
足場を蹴って木々の間を縫って走る。一刻も早く生き物の血肉を取り入れなくては。
踏み込むたびに土は抉れ、過ぎ去る風圧で木の葉がちぎれる。力の加減が効かないことにもどかしさを感じながら、獲物に急接近した。



