光と影
立て続けに三頭の鹿を仕留めて勢いに任せて喰らったところで、猗窩座はようやく人心地ついたように溜め息を落とした。
口の周りの汚れを手の甲で拭い、因縁深い町の方を振り返る。
あの子供はどうしているだろうか。
あのとき、盗みをやめろとは口にすることができなかった。幼いなりに色々と考えたはずだ。真っ当に仕事を得て、十分な給金が支給されるのなら、スリに身をやつすことなくそうしたのだろう。
…自分自身がそうだったから、なんとなくそう思っただけだが。
好きなことや得意なことを生業としていける人生など早々ない。
やりたくもないことに必要に駆られてやむなく手を出す者もいれば、己の意思など関係なく既に決められた道を歩む者だっているのだ。
「……」
そういえば身近にいたな。
その家系が代々鬼狩りをしていて、あらゆる欲を責務の単語ひとつに塗り潰された男が。
腰にぶら下がるさるぼぼを指先で遊びながら、自然と猗窩座の足はある目的地に向かって迷いなく動いていた。
顔を見たい。
ただそれだけだった。
過去を想起させる出来事を受けて、なんだか心の柔らかい部分に触れられたような不快感を覚えて。
それを拭うように鍛錬に打ち込んでみたが、どうやらこのもやもやを払拭するのは限界まで遮二無二身体を動かすことではなく、自身を受け入れてくれる者の傍らで休むことらしい。
猗窩座はひとつ跳躍すると木の枝に飛び乗り、枝から枝へと次々に渡って跳んだ。
無意識に表情が穏やかなものになっているということは、本人にも知る由はなかった。
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東の空が白みがかってきた頃。
それなりに由緒ありそうな立派な神社の境内を、他の隊士を連れて巡回している煉獄杏寿郎を発見して、猗窩座は木の枝から飛び降りて声を投げた。
「杏寿郎!」
煉獄はこちらを見遣ったが、すぐに眉根を寄せて一度明後日の方角に顔を向けたかと思うと、周囲に素早く視線を走らせる。
その行動が意味するところがわからないまま、ただ彼の闘気がぶわりと膨れ上がったことだけは察知して、着地をした猗窩座は内心身構えた。
…何か怒られるようなことをしただろうか。
今回は心当たりがないぞ…
そんな胸中の困惑などお構いなく、煉獄がひと息にこちらに肉薄する。
容赦なく顔面に伸びてくる右手を身を沈めることで掻い潜ると、低い体勢のこちらの腰紐をズボンごと掴まれた。
「お、おいっ、きょうじゅ」
そのまま煉獄は参道を一足飛びに駆け抜けて猗窩座を持った腕を大きく振りかぶり、拝殿の脇すれすれを通り抜けるようにその奥の林へと思いきりぶん投げた。
地面と水平に吹っ飛んだが、空中で態勢を整えて木の幹に足底を張り付かせ、膝で衝撃を殺して停止する。
勢いが勢いだっただけに、隣り合っていた木々は風圧で軽くひしゃげてしまった。
神々への配慮とか、崇拝の心とか、そういったものはないのだろうか…
ひょいと地面に降り立ちつつも、呆然として林の中のこちらへと歩み寄ってくる煉獄を見つめていると、そこで相手の闘気が落ち着いていくことがわかった。
「ふう。さすがに焦ったぞ」
「…いや、俺の台詞だ杏寿郎」
煉獄は、頑なに鬼になることを拒んでいたくせに上弦顔負けの鬼の形相であった先程と打って変わって、安心したように眉尻を下げて微笑している。
一度後方を振り返って何かを確認する相手の挙動が理解できずに、猗窩座がたじろいでいると煉獄はこちらを通り過ぎて更に林の奥へと進んでいく。
ついてこいとばかりの目配せに応じて追随し、しばらく歩いた煉獄が立ち止まって振り返るなり、言い含めるようにずいと顔を近づけてきた。
「もっと気をつけろ。危うく陽光に晒されるところだった」
「…そんなもの、百年以上ものあいだ注意している。まだ猶予があることくらい肌感覚でわかる」
「む。そうだったのか。俺はてっきり気付いていないのかと思ってしまった。無体を働いてしまいすまない」
「あー…それで日が当たらないこんなところに…。そういうことか……なら良かった。本当にとんだご無体だったが、何か杏寿郎を怒らせることをしたのかと冷や冷やしたぞ」
突然の暴力の真相を知って、ようやく溜飲を下げる。
しかし俺の身を太陽から守るためとはいえ、瞬時に周囲の状況を把握して安全な場所を見定めた上避難までさせるとは。
さすがだ杏寿郎。惚れなおしたぞ。
改めて煉獄の判断力と行動力の高さに感心していると、草を踏み分ける複数の足音と、慌てたような男の声がかかった。
「え、炎柱!大丈夫ですか!」
共に巡回をしていた隊士だろう。
別段目を引くような闘気もない上に、杏寿郎の動きに瞬時に対応できない弱者のようだ。
煉獄はまだ姿の見えない声に対して溌剌と言葉を返した。
「問題ない!日は昇っただろうか!」
「え…、日の出は……間もなくです!」
「そうか!もう鬼の出没はないだろう、君たちは解散してくれ!」
「しかし炎柱は…」
柱の指示に瞬間的に従えない隊士に、猗窩座は嘆息して腕を組んで近くの木に寄りかかる。
悪態のひとつでもついてやりたいところだが、あの隊士どもはおそらく俺の存在に気付いていない。
否、何かが降ってきたということくらいは当然認識しているだろう。しかしそれがまさか鬼で、しかも上弦であるということまでは感知できていないようだ。でなければもっと大騒ぎをしている。
杏寿郎が俺のことを口にしていない以上、俺が奴らに己の存在を示すことは控えるべきだろう。
「俺は少々野暮用ができた。ご苦労だった!」
「……は、はい!では失礼致します!」



